龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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『未完の憲法』奥平康弘、木村草太読了。

2014年08月04日 13時40分59秒 | 大震災の中で
國分センセの推薦図書30のうちの一つ。簡単に読める対談だったので、カール=シュミットの『独裁』と二冊職場に持ってきたけれど、当然ながらこっちに手が伸びました。
カール=シュミットはいっぺんには読めないしねぇ。
で、面白かったです。
9条は国連軍を前提として書かれていた、というところにとりあえず目がいきました。
9条は単なる国内事情の問題ではない、という指摘に納得。

7/26に聴いた萱野稔人センセの暴力論=国家論にも出てきた、各国における軍隊の「紛争解決介入化」「警察化」の大きな傾向とも重なる論点があって、憲法9条は日本だけの問題ではなかったんだなあ、と改めて納得。

また、自民党の改憲論議が自己目的化してしまっていて、実際に改憲して何がやりたいかわからないって話も腑に落ちました。

以下は個人的な感想。
日本人に限らないのかもしれないけれど、いろいろ考えていかなきゃならない時代になったんだなあ、とつくづく思う。何も考えないで「惰性」「慣性」で生きられた震災=原発事故以前のあの頃が懐かしい(笑)


郡司ペギオ-幸夫『群れは意識を持つ』が面白い。

2014年08月04日 11時42分59秒 | 大震災の中で
群れというものを、かつて群衆をコンピュータでシミュレートしてCGを作ったり、人工生命のモデルの基礎となった

「ボイド(バードアンドロイドからのもじり)」

というモデル分析「ではなく」、相互予期モデルによって解析し、個の自由と群れの統御が両立する、単なる能動でも受動でもない、「意識」を持ったものとして捉え直すというもても楽しい試みがなされています。

今年の上半期に読んだ本の中ではベストに近いかも。

ゼヒお勧めです。

あとがきからちょこっとだけ引用。

「時間が同時に進まない、すなわち、みなが異なるタイミングで運動することによって、受動と能動の非対称性が現れ、矛盾が現れる。ところが同時に、このタイミングのずれを用いて、この矛盾自体がやわらげられ、弱められる。なぜなら、異なるタイミングのもとで出現する能動と受動の相違は、同時的なタイミングで想定される相互作用や運動と異なり、運動や相互作用の範囲自体を、そのつど変化させてしまうからだ。きわめて逆説的だが、能動的であるとは、周囲と無関係に自分勝手に能動的なのではなく、周囲との関係において、結果的に能動にされてしまうことを意味する。受動的であることも、いわば他者を能動的にするために、能動的に受動的的となるのである」

かっこいいでしょう(^_^)


ちなみに、あとがきにはトゥルーズの引用がありましたし、本文中にはアントニオ・ダマシオの引用もありました。スピノザは引用されていなかったけれど、平行論と重ねて考えられるなあ、と感じます。

ぜひ一読を!