前の記事に関連して、同じく
President ONLINE
で、こんな記事が。
医者自身が病気になったら“治療拒否”したいケース30
http://president.jp/articles/-/15155
確かに切ないけれど、考えておいて悪くはない、と思います。選択の余地も時間もなく、深刻な事態は突然襲ってきます。
そのときのことはそのときになってから考えるしかない、というのはもちろん正解。
でも、時間があるときに少しシミュレーションしておくのも、そんなに荒唐無稽な話でもない、とも思います。
考え得る全てを網羅してあらかじめ準備する、とかいった「神経症的」なやり方はどうかな、という気がしますが、大きな方向性とか、ぎりぎりの分岐点で判断を下すための理性の使い方など、全く準備していないようでも困るし、後悔の元でしょう。
人生は一回しかない。だから、ぎりぎりのところで、失敗とか後悔とか成功とか満足とかを超えてその「生」を受け止めることの方が大切だ
たとえば、私は今田舎に住んでいて、緊急事態に対応できる病院まではいきなり車を運転しても30分から50分はかかります。渋滞時に救急車を呼べば、1時間以上は免れない。
その場所に住んでいるリスクは、織り込んでおくべきだし、それは単なるあきらめとは違う。
ある種の覚悟というか、ね。
抗がん剤だって、どこまでがんばるのか、はいつも考えています。そのときになってみないと分からないし、家族の立場と自分自身の場合でも違うのでしょう。
いざとなって考えが変わるかもしれない。迷いだって出てきて当然だし。
それでも、50代半ばも過ぎてくればいろいろと空想から想像へ、想像から心構えへ、心構えから準備へ、と考えが進んでいくものかもしれません。
この記事、自分が「治療拒否」するかどうかは全く別だけれど参考になりました。
President ONLINE
で、こんな記事が。
医者自身が病気になったら“治療拒否”したいケース30
http://president.jp/articles/-/15155
確かに切ないけれど、考えておいて悪くはない、と思います。選択の余地も時間もなく、深刻な事態は突然襲ってきます。
そのときのことはそのときになってから考えるしかない、というのはもちろん正解。
でも、時間があるときに少しシミュレーションしておくのも、そんなに荒唐無稽な話でもない、とも思います。
考え得る全てを網羅してあらかじめ準備する、とかいった「神経症的」なやり方はどうかな、という気がしますが、大きな方向性とか、ぎりぎりの分岐点で判断を下すための理性の使い方など、全く準備していないようでも困るし、後悔の元でしょう。
人生は一回しかない。だから、ぎりぎりのところで、失敗とか後悔とか成功とか満足とかを超えてその「生」を受け止めることの方が大切だ
し、だから、どこまでどう考えて生きるのか、何が自分にとって大切なのか、優先順位を漠然とであれ考えておくべきでしょう。
たとえば、私は今田舎に住んでいて、緊急事態に対応できる病院まではいきなり車を運転しても30分から50分はかかります。渋滞時に救急車を呼べば、1時間以上は免れない。
その場所に住んでいるリスクは、織り込んでおくべきだし、それは単なるあきらめとは違う。
ある種の覚悟というか、ね。
抗がん剤だって、どこまでがんばるのか、はいつも考えています。そのときになってみないと分からないし、家族の立場と自分自身の場合でも違うのでしょう。
いざとなって考えが変わるかもしれない。迷いだって出てきて当然だし。
それでも、50代半ばも過ぎてくればいろいろと空想から想像へ、想像から心構えへ、心構えから準備へ、と考えが進んでいくものかもしれません。
この記事、自分が「治療拒否」するかどうかは全く別だけれど参考になりました。