昨夜は小三治を聴きに(観に)いってきた。
瞬間、語りが崩壊するのではないかとすら思われるような 「間」の限界をさぐりながらなおもとぎれることなく語り継がれることばたちは間違いなく
「語り」から→ 「噺」へとコトバが飛躍していくその瞬間を常にその場に立ち上げようとする努力の持続であり、切断と連続が同時にそこにある贅沢な「風」をそこに感じつつ、私たちはただ葦のように身をゆだねていればいいのかもしれない。しかし同時に、緊張感が次第に高まっていくこともまた疑えないのだ。
小三治を直接見る=聴くのはこれが二度目だから、いわゆる専門的なことは全く分からない。
しかし枕も演目も、けっしてモノローグではないし、また単なる 「複数の声」でもない、 。
「語り」→ 「騙り」へ。
小三治のまくらにあった言葉で言い換えれば
「落語家」→ 「噺家」へ。
常にその 「電車」に途中乗車するようなハラハラを、枕を丁寧に駆使しながら私たちにもさりげなく準備して(させて)くれる。
むろん米朝もまたそういった自在の発話の遣い手だったが今はもういない。
落語家がその「話」を磨くのは出発点でしかないのだなあ、とこうしてみると理解させられる。
(落語については全くの素人なのに)私は(そして私たちもまた)ことばとは無縁ではいられないし、そのことばはけっして独り言ではいられないのだ(そしてまた群衆の中に埋没もしきれないのだ)と瞬間で教えてくれる小三治の芸は、間違いなく「教育的「でもあった。
自由間接話法、とは違うが、宿題がまた一つ。
世界は、解釈を待っている豊かな誘惑者なのだね。
幸せ。
これも自分で意味が不明なのだが、メモを書いておかねば、ということで。
瞬間、語りが崩壊するのではないかとすら思われるような 「間」の限界をさぐりながらなおもとぎれることなく語り継がれることばたちは間違いなく
「語り」から→ 「噺」へとコトバが飛躍していくその瞬間を常にその場に立ち上げようとする努力の持続であり、切断と連続が同時にそこにある贅沢な「風」をそこに感じつつ、私たちはただ葦のように身をゆだねていればいいのかもしれない。しかし同時に、緊張感が次第に高まっていくこともまた疑えないのだ。
小三治を直接見る=聴くのはこれが二度目だから、いわゆる専門的なことは全く分からない。
しかし枕も演目も、けっしてモノローグではないし、また単なる 「複数の声」でもない、 。
「語り」→ 「騙り」へ。
小三治のまくらにあった言葉で言い換えれば
「落語家」→ 「噺家」へ。
常にその 「電車」に途中乗車するようなハラハラを、枕を丁寧に駆使しながら私たちにもさりげなく準備して(させて)くれる。
むろん米朝もまたそういった自在の発話の遣い手だったが今はもういない。
落語家がその「話」を磨くのは出発点でしかないのだなあ、とこうしてみると理解させられる。
(落語については全くの素人なのに)私は(そして私たちもまた)ことばとは無縁ではいられないし、そのことばはけっして独り言ではいられないのだ(そしてまた群衆の中に埋没もしきれないのだ)と瞬間で教えてくれる小三治の芸は、間違いなく「教育的「でもあった。
自由間接話法、とは違うが、宿題がまた一つ。
世界は、解釈を待っている豊かな誘惑者なのだね。
幸せ。
これも自分で意味が不明なのだが、メモを書いておかねば、ということで。