龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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柳家小三治独演会のメモ(2016/4/4)

2016年04月10日 12時34分52秒 | メディア日記
昨夜は小三治を聴きに(観に)いってきた。

瞬間、語りが崩壊するのではないかとすら思われるような 「間」の限界をさぐりながらなおもとぎれることなく語り継がれることばたちは間違いなく
「語り」から→ 「噺」へとコトバが飛躍していくその瞬間を常にその場に立ち上げようとする努力の持続であり、切断と連続が同時にそこにある贅沢な「風」をそこに感じつつ、私たちはただ葦のように身をゆだねていればいいのかもしれない。しかし同時に、緊張感が次第に高まっていくこともまた疑えないのだ。


小三治を直接見る=聴くのはこれが二度目だから、いわゆる専門的なことは全く分からない。

しかし枕も演目も、けっしてモノローグではないし、また単なる 「複数の声」でもない、 。
「語り」→ 「騙り」へ。
小三治のまくらにあった言葉で言い換えれば

「落語家」→ 「噺家」へ。

常にその 「電車」に途中乗車するようなハラハラを、枕を丁寧に駆使しながら私たちにもさりげなく準備して(させて)くれる。

むろん米朝もまたそういった自在の発話の遣い手だったが今はもういない。

落語家がその「話」を磨くのは出発点でしかないのだなあ、とこうしてみると理解させられる。
(落語については全くの素人なのに)私は(そして私たちもまた)ことばとは無縁ではいられないし、そのことばはけっして独り言ではいられないのだ(そしてまた群衆の中に埋没もしきれないのだ)と瞬間で教えてくれる小三治の芸は、間違いなく「教育的「でもあった。

自由間接話法、とは違うが、宿題がまた一つ。
世界は、解釈を待っている豊かな誘惑者なのだね。

幸せ。
これも自分で意味が不明なのだが、メモを書いておかねば、ということで。

吉田美奈子&森俊之~DUO 2016~の凄さ(2016/3/27)

2016年04月10日 12時09分34秒 | メディア日記
吉田美奈子×森俊之 ~DUO 2016~ 
(2016年3,月27日於:いわきQUEEN)

を聴いた。

吉田美奈子のライブは初めてだった。もう、びっくり仰天だった。

「黙って一度ライブに行け!」

とだけ言えばいいのだが、とりあえず比喩を、書いておけば

「『神獣』の声を聴く体験」

とでも言うほかない。

聴いたことがないので妄想するだけだが、「美空ひばり」とかいう「生き物」もこういう種類の「声」の存在感だったのではないか、と考えてみたくなる。

歌とか音楽というフレームの中で発生したはずの振動が、それ自体命を持ったつまりは「声」として律動し、歌とか演奏とか音楽というフレームとその神の獣が戯れつつその中にそのフレーム自体を取り込んでしまうような、そんなライブだった。

こんなモノは、今まできいたことがないし、たぶんこれからも聴くことはないのかもれない。
とりあえず山下達郎が「日本一のボーカリスト」だという意味のことばで吉田美奈子を評していて、「まあ仲間内だもんね」的に聞き流していたことを何か神様のようなものが、あるとしたらそれに対して詫びたい気持ちになった。

客席は30を少し超えたぐらいの人数。
もったいなさすぎる。

おそらくこれ以上の「声」の体験は、もう二度とないのかもしない、と思う。
ほとんど伝わらないのだろうかがメモ的に書いておかねば、と思った。、