龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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東浩紀×國分功一郎対談(2/9の予習に最適?)

2013年02月06日 00時05分35秒 | 大震災の中で
2/9(土)開催の「エチカ福島」第一回セミナー予習にいかがでしょう?

國分功一郎氏と東浩紀氏の「ニコ生思想地図」というネット動画配信での対談(1年ぐらい前?)です。
ニコ生思想地図 07 「震災以後、哲学とは何か」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm17013383

掛け値なしに面白いです。

とくに、
複数的な超越論性(動物)と単数的超越論性(人間)、という「二元論」を敢えて掲げる東浩紀氏

あくまでドゥルーズ的一元論に立つ國分功一郎氏
という対比が興味深かったです。
まだよく消化できてないけど。

でも、いろいろ示唆的ですね。
大震災以後、地震・津波の被災に加えて原子力発電所の事故による被災の中でどう生き延びていくか、を考える時、「楽しいことを考えないといかん」という話の文脈は、逆に身に沁みて感じられました。

勿論、大変で、笑い事じゃないというか、考え出すと深刻な問題ばかりで、しかもそれぞれ抱えている課題も条件も困難も違っていて、絆とか日本は一つどころの話じゃあない。

むしろ一つに束ねられてはほとんどの問題が見えなくなってしまう。

でもだからこそ、一人一人の現場でどう「生」を十全に生きるか、が問い直されるし、自分ができることをきちんと知るためには、与えられた環境=自然の可能性条件を徹底的に理解し、その中で最善を生きることになる。
っていうか、それしかない。

そこでこそ、人は人と出会うのではないか。そう考えてみたいのだ。
それぞれが大震災と原発事故といういわば「聖痕」(偶然的=運命的な傷)を背中に背負いつつ、目の前の困難に向き合って行く。その多数性がてんでに異質でありつつ、共鳴する結節点はあり得ないだろうか。そう考えていきたいのだ。

だから「楽しみながら」。
だって、そうじゃなくちゃ、お互いバラバラのままだよね。それはあり得ない。
と同時に、一つに団結、なんてもっとあり得ない。
ある主張の元に、瞬間的(短期的)に集うことは無論あり得るし、そういうことは様々に多様な形で必要でもあるだろうし、たまたま既に互いにもう出会ってもいるのかもしれない。

でも、そういう結節点が十二分に成立している、とも思わない。
「エチカ福島」はそういうハブみたいなものの一つになれないだろうか。そんな風にも思っている。


追伸
この対談も含めて、東浩紀氏の対談集という形で、
『震災ニッポンはどこへいく』として書籍化もされました(もうすぐ発売)。
http://genron.co.jp/shinsainippon/


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