YouTubeのCAUTE(哲学語学チャンネル)で、
スピノザ関連文献26冊【スピノザ語り】
というコンテンツがアップされていて、とても勉強になった。
スピノザに関心のある方はぜひご覧になることをお勧めしたい。
ただ、その中で気になった点、というか、自分でちょっと立ち止まって考えてみたいところがあったので、メモ代わりに書いておく。
反論とかつっこみとかいうほどのことではない(このCAUTEさんの動画は他にもラテン語で読むエチカなどありがたいコンテンツがあって、ありがたいと感じています)。
書いておきたいことの一つは、講談社現代新書から出されているスピノザ本3冊についてのコメントだ。
上述の動画子は、三冊を比較してこう評価する。
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吉田量彦『スピノザ』
分量も一番充実しており、伝記的側面に強い。もう一つの特徴としては(光文社の新訳を出しているだけあって)『神学政治論』についての記述が充実している。その分主著『エチカ』の言及部分が他の2冊に比して少ない恨みがある。
上野修『スピノザの世界』
ほぼ全編『エチカ』について論じてあり、あくまでテキストに則した上で、それでもなお上野の解釈ワールドが展開されている。『エチカ』について、あたかもテキストがテキストを論証していくという、きわめて奇異なスピノザテキストの本質に迫っている。
(テキストがテキストを論証していくというのは動画子が推薦していた上野修の別の本『哲学者たちのワンダーランド』から読みとったことをここに重ねてみた表現です、念のため)
國分功一郎『はじめてのスピノザ』
分かりやすい。しかしこれはドゥルージアンのスピノザ。國分さんはドゥルーズで(によって?において?をとおして?)スピノザを読んでいるのではないか。それならばドゥルーズで良くない?と思ってしまう。
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ざっくりの印象で書いているので、詳しくは動画を直接参照してほしいが、この違い、興味深い。指摘の限りでは、その通りだなあと思う(國分スピノザについては後で少し書くが)。
私もこの3冊の比較はぜひしておきたいところだったので、この機会に蛇足ながら付け加えておきたいと思ったことを以下に書く。
所詮素人の感想になるが、新書はまあ非専門家だが興味を持っている大人に向けられたものだろうから、重ねて批評してもバチは当たるまい。
(ここからはCAUTE(哲学語学チャンネル)さんの話ではなく、自分が読んだ感想です)
まず一点目。
吉田スピノザで、納得できない部分がある。
それは、P326の、この部分だ。
(引用開始)
「理性には本来的に、ものごとを何らかの永遠の観点の下に置いてとらえるという性質が備わっている。(第二部定理四四系二)
これは逆に言えば、その時その場で出くわすものごとをその一回性のまま丸ごと理解することは、そもそも理性の働きの埒外、想定外にあるということでもあります。人間の理性とは本質的にそういうものであり、まただからこそ、あまりにも一回性の高い出来事に直面した時には意外なもろさを露呈してしまうのです。二〇一一年に起きた東日本大震災とそれに続く原発事故の際、財界関係者が口々に「想定外」という言葉を連発して責任逃れを試みていましたが、あれはある意味では、理性に内在するこうした構造的限界を素直に露呈した発言とも考えられます。(P326)
(引用終了)
「東日本大震災とそれに続く原発事故」というものが、吉田にとって大した深い意図はなく、一回限りの予想外の出来事のセンセーショナルな例として挙げられたに過ぎないのかもしれないが、これはちょっとどうだろうと首をかしげざるをえなかった。
当時の財界関係者が、理性の知における「想定外」を素直に口にしていた、というのは相当程度ナイーヴな認識ではないか。単に自己の立場を正当化しようとする「感情」や「偏見」の知、つまり第一種認識のレベルの言説として捉える方が妥当じゃないかなあ。スピノザ好きの一人として、彼らに感情を乗り越えて共通認識に至ろうとする「理性の知」を当てはめるのはどうかと思うよ。
また吉田はさらにここに続いて、スピノザの言う理性の知(第二種認識)は、
「要するに、一発食らってからでないと作動しないのが理性なのです」(P327)
とも言っている。あれ、スピノザはそんなこと言ってたっけ?という疑問が湧いてきた。
上野修の『スピノザの世界』國分功一郎の『はじめてのスピノザ』を読んでいて、こんな風にえ、それってスピノザの言ってることだっけ?というところには全く出会わなかったので、ちょっと気になった。
果たして東日本大震災と原発事故を並べ、その上にひとしなみに「理性に内在するこうした構造的限界」という枠組みをかぶせるのが果たして妥当なのかどうか。
福島に住む者として不快であることはおくとしても(苦笑)、ちょっとスピノザの第二種認識の説明として微妙なところではないか。
まあ、専門家が哲学をもて遊んでいる分には目くじらを立てる必要もない。
だが、本気で一回性の現実には受け身になるしかない、と考えているというのなら、もうちょっと謙虚に、もっとつまらない例でも挙げてお茶を濁しておくべきだった、とあえて言っておく。
CAUTE(哲学語学チャンネル)でも吉田スピノザは『エチカ』が弱いと指摘しているし、吉田自身もその旨述べているので、むしろ吉田エチカは、充実した伝記的な記述と『神学・政治論』および『政治論』(岩波文庫では『国家論』)中心に読むのが妥当ということだろう。
吉田量彦氏の光文社文庫刊の『神学・政治論』の新訳は、労作であり、ありがたく勉強させてもらっているということも付け加えておく。
次に、上野修の『スピノザの世界』について。
これは『エチカ』の持つ、あられもない「異様さ」を素人にも分かるように平易にかつやばさが伝わる記述になっていて、改めて久しぶりに今回読み返して上野スピノザの魅力を再認識した。
『デカルト、ホップズ、スピノザ』でも、『哲学者たちのワンダーランド』でもそうだが、上野修スピノザを読むと、スピノザの発想というか、國分氏が指摘するOSの違いというか、その特殊性がぐっとこちらに迫ってくる。
YouTubeには他に、上野修の最終講義が3本に分けられてアップされている『大いなる逆説スピノザ』も参考になる。
徹底した合理主義の究極ともいうべきスピノザの提示する哲学が、内在神というかこの世界そのもの、現実そのもの、自然そのものが神であってその外部はないというある種狂気にも似た「正気」をこともなげに語る異様さを、上野スピノザは私たちに共有させてくれる。
あられもない「正気」としての「真理」が、人びとに怖れられる機微がよく分かる。
『エチカ』を読むならまちがいなく必読の入門書、だろう。
さて、三番目に挙げられている國分功一郎『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』は、CAUTE(哲学語学チャンネル)においては、「ちょっとなあ」というスタンスで紹介されている。
國分功一郎がドゥルージアンであることを指摘しつつ、だったらドゥルーズを読めばいいじゃん、となってしまう、という微妙な評価だ。
ここにはちょっと異論がある。
友人に貸してしまったので今手元に本文がなく、増補前のNHK100分de名著のテキスト『エチカ スピノザ』の最後から引用するが、そこにはこんなことが書かれてある。
「哲学を学ぶ際に一番重要なのは、哲学者が創り出した概念を体得し、それをうまく使いこなせるようになることです。たとえば、組み合わせとしての善悪の概念を使って物事を判断できるようになる。必然性としての自由の概念から教育について考えてみる、そんな風にして概念を使いこなせるようになることこそ、哲学を学び、哲学を身につけることなのです。
(中略)
哲学が研究の場に閉じ込められるようなことは断じてあってはなりません。哲学を専門家が独占するようなことも断じてあってはなりません。哲学は万人のためのものです。」
つまり、『はじめてのエチカ』(100分de名著が元になっている)は、そういうスタンスで書かれている。万人のための入門書、だろう。
であるならば、「哲学を専門家が独占するような」ことからこの本がどれだけ距離を取れているのかいないのか、がまず問題にされてしかるべきだし、ドゥルーズ云々を言うのであれば、國分功一郎の書いた『ドゥルーズの哲学原理』と、この後に書かれた岩波新書の『スピノザ 読む人の肖像』との関係を踏まえた上で、はたして「ドゥルーズを読めばよい」のかどうかを判断するのが妥当なのではないか、と思われる。入門書として、國分スピノザが果たした役割は大きいと思うなあ。
國分功一郎氏自身、岩波新書版の後書きでも、自身の読みがドゥルーズから一歩前に出られたのかどうか、という点について触れていた。「読む人の肖像」という言葉自体、モノグラフィーをよく書いたドゥルーズと、デカルトの読み手でありかつ聖書の読解者でもあったスピノザを重ねた視点の提示という意味も当然含んでいるはずだ。
「読むこと」によってテキストを脱構築していくスピノザ。その上で出会い得るスピノザの姿、については、『スピノザ 読む人の肖像』を改めて読みつつ論じなければならないだろう。
こんなことを私が言うのも口幅ったいが、國分功一郎氏の著述は、いわゆる専門家には割と受けが悪いという印象がある。まあ、専門家集団からしたら、いろいろ言いたいことがあるのだろうということも想像に難はくない。
でも、たとえばネグリのマルティチュードとか、もはや(確信犯的)誤読に近いともいえないこともないだろうし、さまざまな読まれ方が展開されるのが「難解なスピノザ」の真骨頂でもあろう。
國分功一郎さんの「熱い」、ときには暑苦しいかもしれないまでの「侠気(おとこぎ)」を、そのテキストにはいつも感じてきた。
『はじめてのスピノザ』だけではない。『中動態の世界』では学問領域を超え、「概念をつかって物事を判断する道具」として、つまりは医療や福祉の現場で評価される重要なテキストとし、て広くうけいれられてきたし、『畠中尚志全文集』では畠中尚志に対する敬意の深さ、また学問上の恩義について、ぐっと迫ってくるものがあった。
スピノザを専門とする学問がわのヒトは、スピノザの圏域から離れようとしない。テキストクリティークとしてまあ当然といえば当然ともいえる。
だが、スピノザはスピノザの語る圏域のみを世界と呼んだのではなかったはず。この世界、この現実こそが唯一の実体であるとするなら、スピノザ的理性は、狂気の淵に沈む必要もなければ、原発事故にことさら「予想外」といって驚いて見せる必要もない。その理性が「異端」と呼ばれることは理解できるが、上野修のいうクリアな異端さ、國分功一郎のいう「必然性としての自由」、それを単なる逆説として扱う必要はないのでは、とも思う。
結論は、スピノザに興味がある人は3冊とも座右に置こうという話に落ち着くわけだが、その先にいくとすれば、
CAUTE(哲学語学チャンネル)
が紹介している、26冊のスピノザ関連書に駒を進めるのが吉、だろう。
アナーキズムのところ、とくに楽しかった。
アナーキズムにも規範はある。でも上からじゃだめ。
って栗原康に言及した話ね。
アナーキズムの指標としてのスピノザ、とりあえず共感!
CAUTE(哲学語学チャンネル)のYouTube氏には、機会があればぜひ『スピノザ 読む人の肖像』のコメントもしてほしい。
最後に木島泰三さんの『自由意志の向こう側』と『スピノザの自然主義プログラム』の二冊は、セットでスピノザ研究の学問領域の側から、こちら素人の側にきちんとボールを投げてくれているのが分かる。今は、その営為に直ちに応答するだけの力がないのが残念だが、それはまた別の機会に。