6月3日(日)晴れ【無題】(昨日の満月)
人生も、命も、自分も、生きる意味も、何も分からずに悩んでいた頃、縁があって仏教を学ぶことになった。仏門に入る直接のきっかけは道元禅師の「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり」(『正法眼蔵』「現成公案」巻)の一文を目にしたことにある。そうして坐禅修行に入ったわけであるが、かなり道は険しい。
一切の空であることを覚すことが第一歩であり、最後の一歩でもあろう、とこの頃は受け取っている。このことに気が付くまでに、随分時間がかかった。その間、数人の師の門を叩き、師に導かれ、叩かれて、ようやくになんとか仏教がうっすらとわかってきたようなところである。
師からの言葉は宝物である。それはひけらかすものではないが、伝えられれば伝えていきたいものである。釈尊の言葉が伝えられたように、道元禅師の言葉が伝えられたように、自分が教えを受けた師僧がたの言葉も、お伝えしていくのが、隨身としての、また弟子として役目でもあろうと思っている。しかしなかなかにそこまで自分の血肉となしえていないのが我が現状で、申し訳のないことだと自責の念しきりである。
そんなことを思いながら、このところは小川隆著の『神会じんね-敦煌とんこう文献と初期の禅宗史』(臨川書店、2007年4月)を学ばせていただいた。
このログは私の在家の友人たちも読んでいてくれるので、ご存じの方には恐縮だが少し神会について説明させていただきたい。神会(670~762)は六祖慧能(638~713)の弟子であり、洛陽にあった荷沢かたく寺の住持となったので、荷沢神会といわれている。南陽にあった龍興寺の住持にもなったので南陽和上ともいう。
この禅師が禅の歴史で有名なのは、師匠である大鑑慧能禅師をこの人こそ達磨さんからの正系の「六祖」であると顕彰したことであろう。当時、普寂という禅師が七世と称していたので、そうであるなら普寂の師が六祖ということになる。普寂の師は神秀という禅師であった。神会としては自分が七世であることを名乗るには、師の慧能が六祖であらねばならない。
そこで著されたのが『菩提達摩南宗定是非論ぼだいだるまなんしゅうていぜひろん』といえよう。これは敦煌から出土した文献の一つである。この書は敦煌から出土したのだが、イギリスとフランスに分散してしまった。それを胡適こてきという中国の研究者がイギリスとフランスに行って調査し、ほぼ完全な形に復元してくれたという書である。
この書や『神会語録』『楞伽師資記りょうがしじき』等を読み解きながら、神会の思想を解き明かしているのが小川隆著の『神会』である。数行ずつに区切って、原文、訓読、その解説として書かれているので、大変に読みやすい。また中国語の大家でもある著者の訓読は、私のような初学の徒には教えられるところが多い。
神会は「本来空寂なるその自性を自覚せぬがゆえに、妄念にしたがって業を造ってしまうのだ。」(113頁)と説き、定すら妄念とみている。そして「道は只だ道あるのみ」というようなことを説かれている。坐禅すら妄心というのであるから、かなり大胆な説といえるが、その裏付けとなる神会の論については、著者の説かれることを間違って伝えることは避けたいので、もう少し学ばせていただきたい。
とにかく禅といっても、それぞれの禅師の説く説は一つではなく、後の学人はどの説に随って学んでいけばよいのか学べば学ぶほどに迷うこともでてくる。(ただ迷いはするが、悩んではいない。)学びのなかで手探りで仏教徒としての歩みを一歩一歩進めていくしかない。仏教は、ただ救済の宗教ではなく、自覚の宗教であるという、ふくろう博士(現在お教えを頂いている師の一人)の言にあらためて頷いているのである。
*【『神会』を読んで】と題したかったのだが、書けなかったので無題。
*胡適という先生については、昔読んだゾルゲ事件の『尾崎秀美全集』のなかで政治家としてたびたび登場していたので、後で禅の大学者と知り驚いた。
人生も、命も、自分も、生きる意味も、何も分からずに悩んでいた頃、縁があって仏教を学ぶことになった。仏門に入る直接のきっかけは道元禅師の「仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり」(『正法眼蔵』「現成公案」巻)の一文を目にしたことにある。そうして坐禅修行に入ったわけであるが、かなり道は険しい。
一切の空であることを覚すことが第一歩であり、最後の一歩でもあろう、とこの頃は受け取っている。このことに気が付くまでに、随分時間がかかった。その間、数人の師の門を叩き、師に導かれ、叩かれて、ようやくになんとか仏教がうっすらとわかってきたようなところである。
師からの言葉は宝物である。それはひけらかすものではないが、伝えられれば伝えていきたいものである。釈尊の言葉が伝えられたように、道元禅師の言葉が伝えられたように、自分が教えを受けた師僧がたの言葉も、お伝えしていくのが、隨身としての、また弟子として役目でもあろうと思っている。しかしなかなかにそこまで自分の血肉となしえていないのが我が現状で、申し訳のないことだと自責の念しきりである。
そんなことを思いながら、このところは小川隆著の『神会じんね-敦煌とんこう文献と初期の禅宗史』(臨川書店、2007年4月)を学ばせていただいた。
このログは私の在家の友人たちも読んでいてくれるので、ご存じの方には恐縮だが少し神会について説明させていただきたい。神会(670~762)は六祖慧能(638~713)の弟子であり、洛陽にあった荷沢かたく寺の住持となったので、荷沢神会といわれている。南陽にあった龍興寺の住持にもなったので南陽和上ともいう。
この禅師が禅の歴史で有名なのは、師匠である大鑑慧能禅師をこの人こそ達磨さんからの正系の「六祖」であると顕彰したことであろう。当時、普寂という禅師が七世と称していたので、そうであるなら普寂の師が六祖ということになる。普寂の師は神秀という禅師であった。神会としては自分が七世であることを名乗るには、師の慧能が六祖であらねばならない。
そこで著されたのが『菩提達摩南宗定是非論ぼだいだるまなんしゅうていぜひろん』といえよう。これは敦煌から出土した文献の一つである。この書は敦煌から出土したのだが、イギリスとフランスに分散してしまった。それを胡適こてきという中国の研究者がイギリスとフランスに行って調査し、ほぼ完全な形に復元してくれたという書である。
この書や『神会語録』『楞伽師資記りょうがしじき』等を読み解きながら、神会の思想を解き明かしているのが小川隆著の『神会』である。数行ずつに区切って、原文、訓読、その解説として書かれているので、大変に読みやすい。また中国語の大家でもある著者の訓読は、私のような初学の徒には教えられるところが多い。
神会は「本来空寂なるその自性を自覚せぬがゆえに、妄念にしたがって業を造ってしまうのだ。」(113頁)と説き、定すら妄念とみている。そして「道は只だ道あるのみ」というようなことを説かれている。坐禅すら妄心というのであるから、かなり大胆な説といえるが、その裏付けとなる神会の論については、著者の説かれることを間違って伝えることは避けたいので、もう少し学ばせていただきたい。
とにかく禅といっても、それぞれの禅師の説く説は一つではなく、後の学人はどの説に随って学んでいけばよいのか学べば学ぶほどに迷うこともでてくる。(ただ迷いはするが、悩んではいない。)学びのなかで手探りで仏教徒としての歩みを一歩一歩進めていくしかない。仏教は、ただ救済の宗教ではなく、自覚の宗教であるという、ふくろう博士(現在お教えを頂いている師の一人)の言にあらためて頷いているのである。
*【『神会』を読んで】と題したかったのだが、書けなかったので無題。
*胡適という先生については、昔読んだゾルゲ事件の『尾崎秀美全集』のなかで政治家としてたびたび登場していたので、後で禅の大学者と知り驚いた。