風月庵だより

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翻る、五色の幡、風に

2007-09-10 23:57:47 | Weblog
9月10日(月)曇り時々雨【翻る、五色の幡、風に】。

昨日は群馬県の安中にある桂昌寺というお寺で、晉山式(しんさんしき-お寺の新しい住職として、正式に入寺する式)という行事があって、随喜(ずいきーお手伝いのこと)してきた。お寺の真ん前には九十九曲川(つくもがわ)が流れていて、一昨日まで台風九号で増水していたそうだが、式の当日は台風一過の晴天に恵まれた。

さて、風にひるがえる五色の幡はたを見ていて、六祖慧能ろくそえのう(638~713)の風幡ふうばんの話を思い出した。慧能さんが五祖弘忍ごそこうにん(688~761)から法を嗣いでから五年ほど後に、広州の法性寺というお寺にやってきた。丁度印宗法師が涅槃経の講義しているところだったという。そのときたまたま風が吹いてきて幡がゆらいだ。

ある僧が言った、「幡が動いている。」べつの僧が言った、「あれは風が動いているのだ」と。そう言って争っているのを見て、慧能さんは言われた、「幡動き風動くに非ず、人の心自ずから動くなり(幡が動くのでも、風が動くのでもないよ、君たちの心が動いているのだよ)」と。このやりとりを耳にした印宗法師は(慧能の力量を)恐れてぞっとしたという。

『六祖壇経ろくそだんきょう』にはこのような話が収録されている。達磨さんから数えて六番目の祖師である慧能和尚は、出家する前は薪を売って生計を立てていたと書かれている。文字も読めなかった、とも書かれているが、文字通りには受け取れないようだ。涅槃経も法華経もその講義をしたことが伝えられている。ただ四書五経や諸々の書に通じている学者ではなかったということだろう。

この風幡の話では、一切の存在や現象は、ただ心の現れにすぎないのだということを慧能さんは教えたと、この話はとってよいのだろう。
また、現象を現象として認識することはよいが、それに是非の分別をつけることの過ちを指摘しているともとれようか。

身近な問題に置き換えて考えれば、例えば、辛いことがある。しかし、どこに「辛い」という実体があるのだ、それを見せてみよ、見せられないだろう、自分の心が創り出しているにすぎないのだ、と気がつけば、自ずと「辛い」を手放せるのではないか、というふうに考えることができる。いろんな感情や認識も空の雲のようだと思うこともできようか。さて今日はどんな雲が心に浮かんでいるのやら、とどこかに気楽に眺める気持ちを持ってはどうだろう。(厳密に言えば、気持ちは持てませんけれど)

辛い辛いの、正体見たり、我が心
苦しい苦しいの、正体見たり、我が心
あの人嫌だ嫌だの、正体見たり、我が心
自分をも嫌だ嫌だの、正体見れば、我が心

はてさて我が心さえ、実はどこにもありゃしない

風にゆらぐ五色の幡よ。ゆらゆらと楽しそうにゆれながら、お寺の祝い事を眺めているのかい。あ、幡が動いた、とも、風が動いたとも争う人も、その下には無い。

ただ幡の下でくりひろげられる儀式の上に翻っているだけ。おめでたい晉山式でした。