1月28日(金)晴れ寒い【聖徳太子考(9)誰にでも仏性はあると説く『勝鬘経』】
最近驚いたことがあります。「南無釋迦牟尼佛」と彫った墓石についてですが、この「尼」という文字を直したい、という申し出があったといって石材店の方が見えました。「えっ!!❓」「なんだそれは」と思いませんか。「尼」つまり尼僧の尼とその方は思っていて、先祖は尼僧ではない、というのです。なるほど。まさかご訪問の皆様には、そのような疑問は無いと思いますが、南無はナマス(帰依します)釈迦牟尼はシャカムニ(シャカ族出身の聖者)、佛はブッダ(悟れる人)であり、サンスクリットの言葉を音写して漢字をあてたのであって、南も無も尼も全く漢字の意味とは無関係です。しかし、これほどに仏教が人々に浸透していない証拠だと、後から思った次第です。
さて花山信勝師は、釈尊の説法が、その当時の人たちだけが益を受けるのではなく、遠く末代に及んでも利を受けるように、三経の講義がその当時の人たちだけが益を受けるだけではないように、義疏は書かれている、それが聖徳太子(上宮王)のお考えであったろうと書いています。
三経義疏について、その内容について少しだけ書いておきたい。聖徳太子のご最期を考える時、太子は仏教の教えに深く教えられ、身をもってその教えを実践なさった、と思われるからです。
石井公成先生のお書きになった論文や、中外の記事や、『聖徳太子鑚仰』から学んだことを自分なりに咀嚼した段階を少し書かせておいていただきます。(そうしませんと、私自身が次に進めないので恐縮です。)恐縮ですが、このブログは論文ではありませんので、一つ一つ論拠を書き添えませんが、ご容赦ください。
推古天皇14年(606)推古天皇が聖徳太子に『勝鬘経』を講義させた、と『日本書紀』に記されているそうです。推古天皇は、初めての女性天皇ですから、勝鬘夫人も国王の娘であり、隣国の王の妃になった方です。推古天皇は欽明天皇(29代)の娘であり、異母兄の敏達天皇(30代)の皇后になっています。推古天皇にとって、異母弟の用明天皇(31代)の皇子である聖徳太子は甥であり、娘婿でもあります。32代の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺された後、33代として推古天皇は天皇になり、聖徳太子が摂政になったのです(603年)。推古天皇と勝鬘夫人は似た立場ですから、特にこの経典を選ばれたのでしょう。勝鬘夫人は人々に深遠な教えを説いて、お釈迦さまから称賛されたという内容になっています。『勝鬘経』においては仏性・如来蔵思想が説かれていて、『義疏』はさらに『優婆塞戒経』と内容がかなり似ている部分があると、石井先生は具体的に論証されています。優婆塞は世俗の仏教信者のことですから、この経典の中に「在家菩薩」という表現があり、大乗仏教の信者を全て菩薩と呼んでいます。(韓国では女性の仏教信者を全て菩薩と呼んでいます。)
仏教を広めるようにと命令(仏教興隆の詔ー604年)を下した推古天皇に『勝鬘経』はぴったりの内容で、太子は推古天皇を菩薩天子と説いたに等しい、と石井先生は書かれています。そして石井先生の論文の題にあるように、太子自身「海東の菩薩天子」たらんとしたのは、『勝鬘経』を説くにあたって、参考になさったであろう『優婆塞戒経』の影響は大きかったであろうと、石井先生は説かれています。聖徳太子のこの時代、宮廷内も常に権力争いは激しく、『十七条の憲法』(604年)は、仏教思想をもととして、人々を平穏に導きたかった太子の願いが現れた十七条でした。近年激しい論争があった如来蔵思想ですが、誰にも仏性のあることを、太子は人々に思いを込めて説いたのではないでしょうか。
*『勝鬘経』(しょうまんぎょう)中期大乗経典。衆生は如来の性を具しているとする如来蔵思想を説いている。それを勝鬘夫人に語らせているという形式。求那跋陀羅(ぐなばったら)と菩提流志(ぼだいるし)の2訳が現存。隋の吉蔵の解釈が伝わっている。
(今日はこれまでといたします。義疏に直接あたっていないのに、書く事はためらいもありますが、一応アウトラインだけでも自分なりに学んでおきたいのでご容赦。石井先生のお名前をタグに貼るのは、あまりに恐れ多いので、差し控えます。)