9月8日(木)晴 【宗教の風光(三)天地の尺度】
本師の著書から、また「宗教の風光」と表現されている箇所を抜粋してみます。本師は、たとえ宗教の風光という表現をお使いにならなくとも、全て宗教の風光についてお説きになり続けたのではありますが。
「 六祖様は「無常は仏性なり」と示される、この無常のままが永遠のすがたである。無常の一足一足が永遠の歩みであるというのである。百草頭上無辺の春の意味あいもこのような意味あいである。人間の分別、はからいの世界外の出来事ということができる。この事が会得されると、人間の尺度外の存在として「もの」の意味の法が教法となりうることが分明になる。人間の尺度ではない、天地の尺度の世界であってはじめて宗教の風光となることができるわけである。人間の寸法で考えた教えは教えにはならぬ。
(中略)
されば宗教の風光における教えは、天地の道理でなければならぬ。百草頭上無辺の春ということは、私ども一人一人が天地法界のいのちそのものであるということをいうのである。お互いに自分の顔を注文して生まれてきたものはないはずである。生まれてみたらこのような顔になっているのであるから、ごてごていうわけにはいかない。こういう顔をして、こういうすがたをして天地のいのちを生きているのである。こういうすがたをした仏のいのちである。」
(『宗教の風光』ー中山書房仏書林発行 16頁~17頁)
★老人を大事にしないで、自分だけが正しいと思って、若い頃は生きてきたと思います。自分が老境と少しまだ手前の中間に立ってみると、そんなことが見えてきたこの頃です。今日は、やっと歩いている、九十五歳になった母を連れて、新宿まで出かけてきました。靴を買うためです。靴だけは、本人の足が必要ですから。
★「百草頭上無辺の春」:宏智正覚(わんししょうがく)『宏智頌古百則』第四則「世尊指地」の頌の起句