風月庵だより

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「ごっこ」の世界

2020-10-13 10:05:41 | Weblog

10月13日(火)晴れ【「ごっこ」の世界】

檀家さんから頂いた新聞の記事に目が行きました。新聞は、ごみをきれいにくるんで捨てるというこの界隈のルールのために、新聞を檀家さんから、いただいているのです。さて〈「○○ごっこ」する世界〉という見出しの記事に「政治も思想運動も本当の現実を見ない虚構の中の遊びだ」という小見出しがさらにありまして、興味を持ちましたので、捨てないで、読ませていただきました。佐伯啓思さんという京都大学名誉教授のお書きになった一文です。(2019年10月2日朝日新聞)

日本の平和は、日米安保体制によって保たれているという現実に、右も左も目をつむっている。1999年に自死を遂げた江藤淳氏が「『ごっこ』の世界が終わったとき」という評論を1970年に発表したそうであるが、全共闘の反政府運動や三島由紀夫の自主防衛や新たなるナショナリズムの動きには、どれも「革命ごっこ」「ナショナリズムごっこ」「自主防衛ごっこ」にすぎない。「ごっこ」は真の現実に直面しない虚構の中の遊び、云々。

恐縮ながら、上の4行は、佐伯先生の記事を少し抜き書きさせていただきました。

また、江藤氏は「日本は米国のこしらえあげた「鏡張りの部屋」におかれているために、世界というリアリティに直面していない。われわれは鏡に映された自分たちの姿について、右だ左だ、護憲だ改憲だ、と相手をののしりあっている、云々」

しかし、アメリカの核と軍事力を楯として、平和を享受してきた現実も、かなり危ない状況と今やなっている。この日本の一隅で私が危惧しているのは、日本は中国の属国にされてしまうのではないか、現に多くの土地も中国の資本によって、買い占められている、早くこのことが簡単にできないような法律をつくらなくては、日本を守ることはできないだろう、今や日本民族という言葉はつかえない。なぜならばこの日本に多様な民族の人が平和に暮らしているのだから。その中に勿論中国の人も含まれるわけだが、平和裏に共存・共生しているのであれば、問題はないのだが、中国という国家による侵略ということになると問題は別である。単に土地の買い占めだけではなく、もっと大きな問題は軍事力の大人と赤ん坊のような問題がある。だからといって日本の軍事力を強化しなくてはと思ってはいないが。

また「近代日本にとっての最大の経験はあの戦争とその死者たちであった。江藤さんは「ごっこ」が終わればわれわれはあの死者たちと本当に向き合うといったが、どうやら逆に、あの死者たちをたえず想起することによって、せめて「ごっこ」を自覚することぐらいはできるのであろう。」と佐伯先生は最後に書かれている。

ここで、私は、曹洞宗の僧侶の一人として、かねて疑問を持っていることがある。それは「祠堂諷経」という法要のあとの回向文の中にかつては「万国戦死病没者諸英霊」という文言がありました。しかし今はそれがなく、代わりに「万国殉難者諸精霊」となっています。「英霊」という表現はやめてもよいでしょうが、なぜ「戦死病没者」が消されてしまったのでしょう。数年前に弟子ができたときに新しい経典を購入して初めて知ったことです。私は毎朝のおつとめで「万国戦死病没者諸精霊並びに天災による万国殉難者諸精霊」と回向しています。

さらにこの佐伯先生の論を読みまして、「本覚思想」について関連して考えたことがありますが、長すぎますので、この辺で。

「僧侶ごっこ」をしていると反省している尼僧の朝のブログです。(この頃、私は本堂の屋根の葺き替えについて、つくづく住職が一人で六知事、とくに直歳ーお寺の普請などにかかわる役職ーまではきついと思っています。)

おそらく最後までお読みくださった方はいらっしゃらないでしょうが、お読みくださり有難うございました。


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2 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2020-10-15 09:56:12
> 管理人様

回向文の件ですが、確かに難しいところです。まだ総研にいたころ、現職研修に出講するテーマの関係で、この辺を検討しました。

今の文言は、昭和の終わり頃に確定した回向文ですが、どうも、戦死よりも病没、或いはそれこそ「殉難」による死者が多いという見解だったのと、省略したのは全体の字数を減らすためのようです。

そこで、全ての状況を説明しうる言葉としての「殉難者」になった、と記憶しております。もちろん、この善し悪しは検討されて良いと思います。
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Unknown (風月)
2020-10-15 14:29:46
ご意見有難うございます。全体の字数を減らすためというのは、どうも受け入れがたい感じがいたしますが、天災だけではなく、アフガニスタンで殺害された先生や、外務省の方などもいらっしゃいますし、他にも世界中には多くの不慮の死を遂げられた犠牲者や、大震災の犠牲者がいらっしゃいますが、日本としては、戦争で犠牲になられた方々にあらためて供養の回向を文言の中に明確に入れないということは、あまりにおかしいのではないかと思っています。日本のみならず、「万国」という表現はあってもよいと思いますが、昭和の終わりごろの風潮や、この回向文に手を入れられたメンバーにもよったかもしれません。
おそらくそのメンバーの中に戦争でご家族をなくした人はいなかったのではないかと推察いたしますが、はたしていかがでしょう。
これは、再検討していただければ有難いと思います。
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