2月17日(土)曇りのち雨【花を弄すれば香り衣に満つ】
静かなお茶室で坐禅を組める幸運に恵まれた。昭和女子大学のオープンカレッジの講座の講師をさせて頂いていて、そこのお茶室で坐禅をさせてもらっている。そこの床の間に「弄花香満衣」の色紙が飾ってあったので、ご紹介したい。
この言葉は「掬水月在手。弄花香満衣。(水を掬きくすれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ)
」として禅の語録の中に見つけられる。虚堂智愚きどうちぐ(1185~1269)の『虚堂録』にもこの文言はある。『八方珠玉集』の黄龍四世正覚方庵宗顕おうりょうしせしょうがくほうあんしゅうけんの問答や仏眼清遠ぶつがんせいおん(1067~1120)の語録の中や、海会法演かいえほうえん(?~1104)の上堂語の中にも探し出すことができる。
しかし一番最初にこの言葉を使った人は誰か。上記の禅師達は11世紀以降の人なので、それ以前の人がこの語を使用していればと探してみたところ、唐時代の詩人が書いた五言律詩の一句であった。『全唐詩』に収録されている。
いつも禅語録を見ているので、つい禅者の言葉と思いこんでしまうことがある。漢詩の研究をしている方から見れば、すぐに詩人の名が浮かび、その句を含んだ詩が浮かんでくることだろう。
*「春山夜月」 于良史うりょうし
〈原文〉
春山多勝事、賞翫夜忘帰
掬水月在手、弄花香満衣
興来無遠近、欲去惜芳菲
南望鳴鐘処、楼台深翠微
〈訓読〉
春山勝事多し、賞翫して夜帰るを忘る
水を掬きくすれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ
興来らば遠近おんごん無く、芳菲ほうひを惜しんで去ゆかんとす
南に鳴鐘の処を望めば、楼台ろうだいは翠微すいびに深し
〈試訳〉
春の山は素晴らしい事が多いので、それを愛でていると夜になっても家に帰ることを忘れてしまうほどであるよ。(澄んだ川の)水を手で掬すくえば月がその中に(映って)在るし、花にふれればその香りが衣に満ちあふれるようだ。興が乗れば遠い近いにかかわらず、芳かんばしい花の香りを愛でて何処までも行きたいものだ。鐘の音が聞こえる南の方を遙かに見れば、楼台が春の芽吹きの山の中腹に隠れていることだ。
(この転句と結句の訳は再考の余地があるかもしれない。参考にする訳がないので後日の再考をお待ち下さい。またはコメント頂ければ幸甚です)
承句の「掬水月在手、弄花香満衣」は禅的な意味合いを読みとれる句なので、後の禅者が好んで引用したようである。それでこの句はいつしか禅語とみなされたようであるが、もともとは于良史の詩の一句であったのである。于良史については『大漢和辞典』にも見つけられないのだが、唐時代(618~905)の詩人である。
この句について禅的な意味合いに読むとすると、どのように読みとれるであろうか。月を真理とみるならば、水を掬きくすれば真理は手中にあるし、花を勝事とみるならば、勝事の最たることは仏教を学ぶことであるから、仏の教えにふれたならば、自ずと仏の教えに包まれてしまう、と読み解くこともできる。
月とも花ともこの身が一枚になっていて、隔てがない天地のありようとも読みとれようか。いかようにも読みとることのできる懐の広い表現である。このような語句は言葉という制約を乗り越えた言語表現としての極致といえるのだろう。後の禅者もこの詩句を借りてそれぞれの悟りの境地を表せたのであろう。この語句に寄せるそれぞれの禅者の意味するところは異なっているのかもしれない。
後の者がまたそれぞれ好きに、いかにもの意味をつけて解説したりするわけだが、于良史もお好きにどうぞお使い下さい、というところだろう。もともとの素直な詩の味わいを学んだ上で、この語句を読み解くとまた味わいが異なるのではないだろうか。
ところで明日の東京マラソンは雨が優しいと良いですね。沖縄の島袋勉さんは両脚が膝から義足なのですが、マッサージをしつつ走るそうです。完走を祈ります。
*栗林公園やそちこちに掬水亭という名のお茶室などがあるが、この詩句からつけられている。
静かなお茶室で坐禅を組める幸運に恵まれた。昭和女子大学のオープンカレッジの講座の講師をさせて頂いていて、そこのお茶室で坐禅をさせてもらっている。そこの床の間に「弄花香満衣」の色紙が飾ってあったので、ご紹介したい。
この言葉は「掬水月在手。弄花香満衣。(水を掬きくすれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ)
」として禅の語録の中に見つけられる。虚堂智愚きどうちぐ(1185~1269)の『虚堂録』にもこの文言はある。『八方珠玉集』の黄龍四世正覚方庵宗顕おうりょうしせしょうがくほうあんしゅうけんの問答や仏眼清遠ぶつがんせいおん(1067~1120)の語録の中や、海会法演かいえほうえん(?~1104)の上堂語の中にも探し出すことができる。
しかし一番最初にこの言葉を使った人は誰か。上記の禅師達は11世紀以降の人なので、それ以前の人がこの語を使用していればと探してみたところ、唐時代の詩人が書いた五言律詩の一句であった。『全唐詩』に収録されている。
いつも禅語録を見ているので、つい禅者の言葉と思いこんでしまうことがある。漢詩の研究をしている方から見れば、すぐに詩人の名が浮かび、その句を含んだ詩が浮かんでくることだろう。
*「春山夜月」 于良史うりょうし
〈原文〉
春山多勝事、賞翫夜忘帰
掬水月在手、弄花香満衣
興来無遠近、欲去惜芳菲
南望鳴鐘処、楼台深翠微
〈訓読〉
春山勝事多し、賞翫して夜帰るを忘る
水を掬きくすれば月手に在り、花を弄すれば香り衣に満つ
興来らば遠近おんごん無く、芳菲ほうひを惜しんで去ゆかんとす
南に鳴鐘の処を望めば、楼台ろうだいは翠微すいびに深し
〈試訳〉
春の山は素晴らしい事が多いので、それを愛でていると夜になっても家に帰ることを忘れてしまうほどであるよ。(澄んだ川の)水を手で掬すくえば月がその中に(映って)在るし、花にふれればその香りが衣に満ちあふれるようだ。興が乗れば遠い近いにかかわらず、芳かんばしい花の香りを愛でて何処までも行きたいものだ。鐘の音が聞こえる南の方を遙かに見れば、楼台が春の芽吹きの山の中腹に隠れていることだ。
(この転句と結句の訳は再考の余地があるかもしれない。参考にする訳がないので後日の再考をお待ち下さい。またはコメント頂ければ幸甚です)
承句の「掬水月在手、弄花香満衣」は禅的な意味合いを読みとれる句なので、後の禅者が好んで引用したようである。それでこの句はいつしか禅語とみなされたようであるが、もともとは于良史の詩の一句であったのである。于良史については『大漢和辞典』にも見つけられないのだが、唐時代(618~905)の詩人である。
この句について禅的な意味合いに読むとすると、どのように読みとれるであろうか。月を真理とみるならば、水を掬きくすれば真理は手中にあるし、花を勝事とみるならば、勝事の最たることは仏教を学ぶことであるから、仏の教えにふれたならば、自ずと仏の教えに包まれてしまう、と読み解くこともできる。
月とも花ともこの身が一枚になっていて、隔てがない天地のありようとも読みとれようか。いかようにも読みとることのできる懐の広い表現である。このような語句は言葉という制約を乗り越えた言語表現としての極致といえるのだろう。後の禅者もこの詩句を借りてそれぞれの悟りの境地を表せたのであろう。この語句に寄せるそれぞれの禅者の意味するところは異なっているのかもしれない。
後の者がまたそれぞれ好きに、いかにもの意味をつけて解説したりするわけだが、于良史もお好きにどうぞお使い下さい、というところだろう。もともとの素直な詩の味わいを学んだ上で、この語句を読み解くとまた味わいが異なるのではないだろうか。
ところで明日の東京マラソンは雨が優しいと良いですね。沖縄の島袋勉さんは両脚が膝から義足なのですが、マッサージをしつつ走るそうです。完走を祈ります。
*栗林公園やそちこちに掬水亭という名のお茶室などがあるが、この詩句からつけられている。
の意味を調べている時に、こちらのブログ
で、すごく納得と思うような訳に出会い、
勝手ながら、ブログに引用させていただきました。もし、他のブログに載せるのは。と仰られるのであれば、すぐ削除いたします。
先にメッセージさせていただいたほうが良かったのですが。すみません。