7月25日(火)雨後曇り【戒名について考える】
(このところブログの管理を怠っていて、せっかくご訪問下さる方に失礼をしています。世の中はやはり多くの問題が起こっています。とても世の中の動きにはついていくことはできません。)
もうおそらく半年以上テレビドラマも観ていないので、実は「東京タワー」の放映を楽しみにしていた。リリー・フランキー氏の原作『東京タワー~オカンとボクと、時々オトン』(扶桑社、2005年刊)を友人に勧められて読んでいたので、どんなドラマに仕立てられているか興味もあり、楽しみにもしていた。
今は亡きドラマ作りの名人、久世光彦氏(享年70)がドラマ化を望んでいた作品であり、遺作と言えないまでも最後の息がかかった作品である。原作は始めのうちは私には違和感があったが、段々にリリー氏の世界に入り込まされていき、読んでいるうちに親孝行がしたくなるような作品である。そして「こんなでも何とか生きていけるようになるのだなあ」と勇気を与えてくれるような作品である。ベストセラーであることが頷ける。
それが例の未成年女子に暴行を働いた芸能人がその作品に出ていたために、予定日の放映は中止になったかと思っていたが、それでもいつかは放映の可能性のある延期になったようだ。
しかしそんな呑気なことも言っていられないほど、日本列島は大雨の被害で20人近い人が犧牲になってしまい、多くの家屋が流されたり、土砂に埋まってしまったり、予想外の被害が出ている。自然破壊の威力のすごさの前に人間は手の打ちようがない。人為でなんとかなる問題は大したことではないと痛感させられる。
さて今日のタイトルは戒名についてである。昨日、一昨日とご葬儀の導師を頼まれてやむを得ずに勤めさせてもらった。お金がないのでなんとか私に、と言われるので断るわけにはいかなかった。遺族は中学生と高校生の二人の少年である。母親はすでに12年前に亡くなり、今度は父親が突然に亡くなってしまったのである。
以前に亡くなっている母親の戒名には院号大姉がついているという。なぜ、院号をつけたのだろうか。お通夜とお葬式と戒名代で○○円だったという。曹洞宗は高いですね、と言われてしまう。なんという考え違いを人々はしているのであろうか。
戒名は佛弟子としての証であり、お金で売買されるものではない。院号は、特にお寺に功労のあった人に、お寺の方から特別につけるもので、依願によって付けられるものではない。もともとはお寺を建てた人やその一族に与えられていた特別の戒名であって、お金を積んで得られるような筋合いの戒名ではないのである。私が今研究している室町期の禅僧の語録にも多くの戒名が出てくるが、長い戒名はお寺を建てた人及びその一族にだけ付けられているのである。例えば龍文寺殿大造欽公居士などというように龍文寺というお寺を建立した人についているのである。
そして一番大切なことは院号が戒名に付いていようが、付いていまいが、彼の世でのランクには全く無関係だということである。釈尊は法の下に人間の平等を説かれた。その釈尊の教えのもとに戒名のランク付けがあること自体おかしいことである。
いつの頃からお金を積んで院号を戒名につけてもらうという悪弊が、社会にはびこってしまったのだろうか。つける僧侶もよくよく考えなくては、今回のように夫婦の男性が亡くなるときに、先に亡くなっている夫人と比べて戒名のバランスがおかしいことになってしまう。頼まれた僧侶はたとえお金を積まれても、先々のことを考えて院号を付けることは意味のないことを諭すべきであったろう。
付けて貰いたいと願う人々にも問題がある。いくらでなくては院号を付けないそうですね、高いですね、という考えは全くの間違いである。院号などつけたいと思うことが先ず第一の間違い、院号を望む限りはお寺への貢献としてお布施が高くなるのは当然なので、院号を望む以上は高いなどと言うことは間違いもいいとこである。まず第一の間違いがあるので、この間違いを無くせば第二の間違いは生じてこないことになる。
しかし現実問題として、世間的に少し活躍した人は院号のついた戒名を望むし、立派な戒名でしたね、などという傾向がある。一方戒名についてのお布施がお寺の経営にとって大事な収入源になっている面もあるだろう。しかし、これを止めないと仏教は本当に衰退していくであろうし、僧侶は彼の世で釈尊の前に佛弟子として立つことはできないだろう。また人々も戒名に拘わらず、特に小さいお寺は、お寺の管理はなかなか大変なので、できるのであれば、徳積みとして多くのお布施をお寺に包まれても一向にかまわないことである。また徳積みとして社会に還元してもよいのではなかろうか。
本当に生きたお金の使い方をしたいものである。とにかく戒名の差は後生の救いに全く関係が無いのである。その人がどう生きたか、どう徳を積んだかだけが問題なのである。お互いに本当のところを見失わないで生きあいたいものと思うのである。
院号:院号はもともとは天皇が譲位や隱居によって移り住んだところを院と呼ぶようになったのが初めである。(はじめての院号は嵯峨天皇〈786~842)の嵯峨院の称号。)その後公家や武家が江戸時代に戒名につけるようになったそうであるが、江戸幕府は禁止令を出している。また明治以降、大富豪や政治家などの戒名につけられるようになり、降って社会に大きく貢献した人や寺院への貢献が顕著であり、信仰心の篤い人に贈られるようになり、さらに多額の寄附などによる一時的な功労者に贈られるようになったようである。ご参考にして頂きたい。
(このところブログの管理を怠っていて、せっかくご訪問下さる方に失礼をしています。世の中はやはり多くの問題が起こっています。とても世の中の動きにはついていくことはできません。)
もうおそらく半年以上テレビドラマも観ていないので、実は「東京タワー」の放映を楽しみにしていた。リリー・フランキー氏の原作『東京タワー~オカンとボクと、時々オトン』(扶桑社、2005年刊)を友人に勧められて読んでいたので、どんなドラマに仕立てられているか興味もあり、楽しみにもしていた。
今は亡きドラマ作りの名人、久世光彦氏(享年70)がドラマ化を望んでいた作品であり、遺作と言えないまでも最後の息がかかった作品である。原作は始めのうちは私には違和感があったが、段々にリリー氏の世界に入り込まされていき、読んでいるうちに親孝行がしたくなるような作品である。そして「こんなでも何とか生きていけるようになるのだなあ」と勇気を与えてくれるような作品である。ベストセラーであることが頷ける。
それが例の未成年女子に暴行を働いた芸能人がその作品に出ていたために、予定日の放映は中止になったかと思っていたが、それでもいつかは放映の可能性のある延期になったようだ。
しかしそんな呑気なことも言っていられないほど、日本列島は大雨の被害で20人近い人が犧牲になってしまい、多くの家屋が流されたり、土砂に埋まってしまったり、予想外の被害が出ている。自然破壊の威力のすごさの前に人間は手の打ちようがない。人為でなんとかなる問題は大したことではないと痛感させられる。
さて今日のタイトルは戒名についてである。昨日、一昨日とご葬儀の導師を頼まれてやむを得ずに勤めさせてもらった。お金がないのでなんとか私に、と言われるので断るわけにはいかなかった。遺族は中学生と高校生の二人の少年である。母親はすでに12年前に亡くなり、今度は父親が突然に亡くなってしまったのである。
以前に亡くなっている母親の戒名には院号大姉がついているという。なぜ、院号をつけたのだろうか。お通夜とお葬式と戒名代で○○円だったという。曹洞宗は高いですね、と言われてしまう。なんという考え違いを人々はしているのであろうか。
戒名は佛弟子としての証であり、お金で売買されるものではない。院号は、特にお寺に功労のあった人に、お寺の方から特別につけるもので、依願によって付けられるものではない。もともとはお寺を建てた人やその一族に与えられていた特別の戒名であって、お金を積んで得られるような筋合いの戒名ではないのである。私が今研究している室町期の禅僧の語録にも多くの戒名が出てくるが、長い戒名はお寺を建てた人及びその一族にだけ付けられているのである。例えば龍文寺殿大造欽公居士などというように龍文寺というお寺を建立した人についているのである。
そして一番大切なことは院号が戒名に付いていようが、付いていまいが、彼の世でのランクには全く無関係だということである。釈尊は法の下に人間の平等を説かれた。その釈尊の教えのもとに戒名のランク付けがあること自体おかしいことである。
いつの頃からお金を積んで院号を戒名につけてもらうという悪弊が、社会にはびこってしまったのだろうか。つける僧侶もよくよく考えなくては、今回のように夫婦の男性が亡くなるときに、先に亡くなっている夫人と比べて戒名のバランスがおかしいことになってしまう。頼まれた僧侶はたとえお金を積まれても、先々のことを考えて院号を付けることは意味のないことを諭すべきであったろう。
付けて貰いたいと願う人々にも問題がある。いくらでなくては院号を付けないそうですね、高いですね、という考えは全くの間違いである。院号などつけたいと思うことが先ず第一の間違い、院号を望む限りはお寺への貢献としてお布施が高くなるのは当然なので、院号を望む以上は高いなどと言うことは間違いもいいとこである。まず第一の間違いがあるので、この間違いを無くせば第二の間違いは生じてこないことになる。
しかし現実問題として、世間的に少し活躍した人は院号のついた戒名を望むし、立派な戒名でしたね、などという傾向がある。一方戒名についてのお布施がお寺の経営にとって大事な収入源になっている面もあるだろう。しかし、これを止めないと仏教は本当に衰退していくであろうし、僧侶は彼の世で釈尊の前に佛弟子として立つことはできないだろう。また人々も戒名に拘わらず、特に小さいお寺は、お寺の管理はなかなか大変なので、できるのであれば、徳積みとして多くのお布施をお寺に包まれても一向にかまわないことである。また徳積みとして社会に還元してもよいのではなかろうか。
本当に生きたお金の使い方をしたいものである。とにかく戒名の差は後生の救いに全く関係が無いのである。その人がどう生きたか、どう徳を積んだかだけが問題なのである。お互いに本当のところを見失わないで生きあいたいものと思うのである。
院号:院号はもともとは天皇が譲位や隱居によって移り住んだところを院と呼ぶようになったのが初めである。(はじめての院号は嵯峨天皇〈786~842)の嵯峨院の称号。)その後公家や武家が江戸時代に戒名につけるようになったそうであるが、江戸幕府は禁止令を出している。また明治以降、大富豪や政治家などの戒名につけられるようになり、降って社会に大きく貢献した人や寺院への貢献が顕著であり、信仰心の篤い人に贈られるようになり、さらに多額の寄附などによる一時的な功労者に贈られるようになったようである。ご参考にして頂きたい。
道元禅師が猿猴が笑うといっておられるのに緋い衣を着たがる。
私は、お金が無いのでそれらのものとは無縁です。お金が無くってよかった・・・。
心からの徳積みをお伝えする必要があるのではと思います。
ご喪儀も葬儀屋ペースであることに今回もあきれたことがありました。私は譲りませんが。
ランク付けについて、その過ちは僧侶であれば、皆知っていることではあるはずなのですが。後々の面倒も見ないでその場限りのご葬儀で多額のお布施を貰っていくというお坊さんが稀にでもいるのは困りものです。
お金の問題を離れて、スッキリさせたいと思っています。
うさじいさんのご意見、
>宗門の教師資格、僧侶の位階についても同じことが言えます。
これに共感します。
布施の問題、やはりそれ自体が善行であり、世の基準の多寡に還元してはならないこと、そして、檀家さんはたとえ50年後であってもお寺が存続していることを考えて、その頃までもきちっと供養してくれることを望んで、常に多めに包むべきであろうとは思います。まぁ、これを見ている在家の方が坊主の勝手な言い分だと言われてしまえばそれまでですけれども。。。
teraさんのblogからお邪魔しました。
戒名について教えて頂きたいと思い、コメントさせていただきます。
私の祖父は分家筋で、祖母が亡くなった10年前に院号を付けた戒名を、お寺さんから頂きました。
元気だった祖父は、「本家が院号でないのに分家が院号は頂けない。」と申\しあげましたが、お寺さんは一度付けた戒名なのでと、かなり強引でした。
分家で始めての葬儀、祖父も父も戸惑い、知人を介して戒名の金額、本家の手前等伺って貰ったところ、院号は○○円としっかり提示されたとの事。
本家を立てて、本家の戒名も院号を授けましょう。
との返事に、祖父も父も戸惑いながらも従ったようです。
勿論我が家はお寺を作ってはいますし、精々お寺さん主催のバスツアーに祖父母で参加した位です。
院号を授けられてもお断りする事は出来るのでしょうか?
teraさんにも話した事がありますが、管理人様始めteraさんのところにいらっしゃる、僧侶の方々と、我が家のお寺さんは宗派は同じでも、温度差を感じてしまいます。
両親も高齢になり、後を継いだ妹夫婦に大きな負担になるのではないかと危惧しております。
どうぞよろしくご指導下さいませ。
長々失礼致しました。
お寺は作っていません。
の間違いです。
申\し訳ありません。
私の意見は、押しつけられた院号は、お断りしてよいと思います。
あまりこのような話は聞いたことがありません。檀家さんのほうで、何とか院号に、と頼まれたとき、それでは○○円、ということになるでしょう。
しかしたとえ頼まれたとしても諸般の事情を考えたとき、院号は止めた方がよい場合には、僧侶はアドバイスすべきだと思います。
院号はどうして付けるのかという赤字の部分を参考になさっていただきますよう。
将来の話ですが、いつの日か必ず来る日ですので恐縮ですが、お寺に親御さんのご葬儀をお願いするとき、即座に断固として、院号でなくて結構ですと、お伝えになった方がよいかもしれません。
院号などつけましたら、かえって徳を損じます、とおっしゃってはいかがでしょう。
hitomiさんへのお返事を書かせていただきましたが、ぜんさんはどう思われますでしょう。私は僧侶からの院号の押しつけと○○円の請求はおかしいと思いますが。
この僧侶の方とお話してみたいほどですね。なにかしらその僧侶の考えがあるのでしょうか。知りたいところです。
tenjinおしょうさんへ
日本のお寺ではあまり徳積みということを教えませんが、天理教では身のひのきしん、お金の?ひのきしんといって、心から天理教に仕える教えがあります。
私の寺子屋に来ていた子の家がそうでした。心からのお布施をすることが、人々の喜びになるような何かがお寺にあってほしいですね。
hitomiさんの質問のようなことが行われているという状況は問題だと思います。
壇家である我が家の田舎も頓珍漢なのかも知れません。
帰省した時に、両親、妹夫婦とよく話し合ってみます。
将来必ずお世話になるお寺さん、曹洞宗について私を含めあまりにも知らなすぎる感が否めません。
これを機に学んでいきたいと思います。
ありがとうございました。
hitomiさんの例では、普通は、「院号はつけられません」というか「ご希望でしたら貢献度に見合う○○円位の布施を」というようになると思いますが、希望もしない高額な布施を伴った院号を僧侶側から授与というのは理解し難いことですね。
うちの方横浜で困っている戒名問題があります。市内の約6割は檀家契約をしていない菩提寺を持たない家庭だそうですが、葬儀が発生すると、通常は、病院→葬儀社→僧侶という紹介ルートに乗って葬儀が執行されるようです。戒名の位階決定も、金額も含めて葬儀社が決めて僧侶が授けることも多いようです。そして、そのキックバックを僧侶が葬儀社に支払う仕組みなのです。この場合の僧侶の多くは、寺院を持たないか、多くの代役僧をかかえる葬儀請負寺院なのです。ですから、49日以降の供養に対応できなかったり、そのつど僧侶が入れ替わるなどの儀礼的に終わる供養そのものなのです。
ここで、多いのが「居士大姉」戒名です。一度、施主の方に聞いたことがあります。すると「故人にはとても感謝しているので、人様に笑われないような普通のせいいっぱいのことをしてあげたい」と伝えたのだそうです。上・中・下と言われれば「中」と答えたくなるのは当然でしょう。
上・中・下、高額・普通・低額といったような世情のランク観念を基準にする無知な業者も問題ですが、言われるままに授与するバカな僧侶には空いた口がふさがりません。
以前に美空ひばりさんの話を聞いたことがあるのですが、「私の歌を聞きに来て下さる方は平等に、例えば二階席の一番隅に座っていられる方にまごころを伝えるつもりで歌っています」という精神こそが大切だと思っています。
信士信女こそ、立派な普通の戒名で、私達は平等に誠心誠意、最大限の安らぎの供養を心がけるべきものと思っています。金額が一人歩きする戒名は、葬儀そのものの不要論へと直結しかねない問題だと思います。
自ブログではなかにか踏み込めないのですが、この場をお借りして「やどかりコメント」させていただきました。長々と過激な書込みで申し訳ありません。
本当に戒名のことをきちんと仏教界は決めないと、仏教離れ現象をさらに拡大してしまうと思います。
せっかくの釈尊の教えが伝わらないのは残念なことだと思います。寺院の存続はその後から自然についてくるものだと思います。
戒名が売り物のようになっていることは、本当に仏教界のミスなので、戒名の位階廃止を論じてはいかがなものかと思うほどです。
それはほとんど無理なように今は見えますが、仏教の興隆のために希望を捨てなければそんな日が来るのではないかと思います。
そして故人に対して供養の真を表したかったならば、戒名とは関係なく寺にお布施を包んでくれてもかまわないことですし、社会に寄付をしてもよいと思うのですが、なんの代償もないことは皆嫌がるでしょうが、そこにこそ教えがあるわけですから。
徳積みということをもっと日本の仏教も説いた方がよいのではないかと思い、私は今、法事の度にそれをお伝えしています。
コメント有り難うございました。