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本覚思想を学ぶ その2

2020-11-09 17:59:59 | Weblog

11月7日(土)晴れ【本覚思想を学ぶ その2】

まず本覚という言葉ですが、この語は、『大乗起信論』の中で多く用いられています。かなり随所にありますが、一カ所をあげてみますと

法界一相即是如来平等法身,依此法身說名本覚。何以故本覚義者,対始覚義說,以始覚者即同本覚。始覚義者,依本覚而有不覚,依不覚故說有始覚。
(法界の一相は即ち如来平等法身なり,此法身に依るを本覚と名づくと說く。いかなるが故に本覚の義は、始覚の義に対して說くや,始覚とは以て即ち本覚に同じ。始覚の義は,本覚に依れば不覚有りて,不覚に依るが故に始覚有りと説く。)

訓読は少し独自な読み方かもしれません。辞書を借りて少し説明してみますと、本覚は本来的に一切衆生が具有している悟りの智慧、本覚ということを言えば、その反対に、本来悟っているのに現実的には迷いの状態である不覚があります。この不覚があるので、修行して悟りの智慧を段階的に得ていく始覚が不覚に関して出てくる、という意味になるでしょう。始覚の最終目標は本覚である、ということが『大乗起信論』では説かれているのです。

しかし、本覚思想ということになりますと、修行とは無縁の絶対的に本覚が強調されてしまうところに、問題が生じてしまったのです。本覚思想は天台本覚思想と言われますので、私は、全く不勉強であったときに天台智顗(538~598)や最澄(767~822)が説いた教えかと思い込んでいました。知らないということはそんなものか、と、お笑いください。しかし、50才から駒澤大学に入りまして、仏教学について学び、少しわかったような次第です。もし、大学に入らずに自分流に本を読んでいただけでは、私の場合はですが、少しどころではなく、全く分からないことだらけであったと思います。

天台本覚思想と言いますが、問題とされるのは、日本天台本覚思想であり、いつごろから説かれたか、不明だそうですが、慈恵大師良源(912~985)に師事した恵心僧都源信(942~1017)や檀那院覚運(953~1007)が、「あるがままの現象世界を仏の世界とみたとらえ方」をしているそうです。お二人の著書の相当箇所にあたることができませんので、どのような使い方をしているのか、ここに書き出すことができず恐縮です。これが本覚思想であると思想として特定したのは、後世のことでしょうか。

本覚のこのようなとらえ方は、凡夫は凡夫のままでそのままでよい、という拡大解釈をされることによって、危険な落とし穴に陥ってしまったのです。修行不要というとらえ方にまでに発展してしまい、愛欲や財欲までも肯定してしまうという退廃を招き、一部に堕落してしまった僧侶もでてきてしまったということです。

そこで、鎌倉時代になりますと、法然上人(1133~1212)は、これを批判し、その弟子親鸞上人(1173~1262)は、お念仏を唱える浄土教を打ち立て、道元禅師(1200~1253)は、只管打坐の修行を大事とした修証一等の禅の教えを実践なさり、日蓮上人(1222~82)は、『法華経』を第一としてお題目を唱える教えを、それぞれ比叡山を後にして、それぞれの道を開いていったことになります。

しかし、本来の意味の本覚思想から各宗祖たちは、絶対的一元論としての哲理の深さは学んでいるのであり、本覚思想自体は全く誤ったというわけではないでしょう。後世のとらえ方に問題があるのであり、本覚思想も、堕落した現実をそのまま肯定しているというとらえ方が問題なのであって、全否定される思想ではない、と、学んでみて、私は現段階ではとらえています。しかし、如来蔵思想も仏教ではないという否定もあるわけでして、本覚思想自体仏教ではないというとらえ方をなさる学者の方や、僧侶の方もいらっしゃるので、あまり学問的になりすぎますと、仏教がますますわからなくなり、人々から遊離してしまうのではないでしょうか。

だれにでも仏性がありますよ、とよく聞く言葉ですが、これは本覚思想も如来蔵思想も、お釈迦様はそのようなことは説いていない、と言われてしまいますと、困惑する僧侶の人もいると思います。

たしかに誰にでも仏性があるのならば、なぜ鬼のような親がいて子殺しをしたり、想像を絶するような事件を起こす人間もいます。これをどのように説明することができましょうか。これも客塵煩悩のせいにすることはできかねる問題です。

お釈迦様の時代、書き記すということがなく(文字はあったという説もありますが)、後々の者はまことにああだこうだと言う余地がありすぎですね。キリスト教にしても、イエス様が書き記した書物があるわけではありません。

経典にも『華厳経』もあれば、『法華経』もあれば『涅槃経』もあれば、八万大蔵経と言いますが、実に多くの経典があり、どのお経が、一番お釈迦様が説かれた教えに近いのか、難しいところでしょう。

「本覚」という言葉は、インド撰述の書物には現段階では見出すことはできないので、中国で使われだした語ではないかと言われています。『大乗起信論』を著したのは、一説にインドの仏教詩人馬鳴と言われていましたが、今ではその説は否定されていて、中国撰述説が有力です。先日駒澤大学のオンライン講演で、「本覚」の起源についてのご発表がありましたが、『大乗起信論』以外に遡れないような発表でした。

*しかし、『大乗起信論』の訳者は、西インド出身のパラマールタ(真諦 499~569)ですし、後にシクシャーナンダ(実叉難陀 652~710)によって訳されているので、中国で書かれた論書ということは、どういうことなのでしょうか。将来学者の方の探求によって、明らかにされることの一つかもしれません。何れにしましても中国の大乗仏教に与えた影響の大きい論書です。華厳宗の大成者、法蔵(643~712)は『大乗起信論義記』を著しています。

読んだ本からの引用をもっと書き出したかったのですが、書き留めたノートにページ数も書きませんでしたのと、なかなか簡単には書ききれないことと、私の咀嚼が不十分であり、ブログに書く事さえ憚れるのですが、恐縮ながら、私自身の勉強として、ちょっと書かせていただいた次第です。

ちょっとでも書きませんと、次に進めませんので、ご容赦ください。

老いたる私は、このままの不勉強ではどうも死に切れませんが、来世までも学び続けていくという姿勢を表明することによって、ご容赦ください。どうもこの題名で書かなければよかったと思いましたが、「その1」を書いてしまいましたので、自分自身が後に引けなくなりましたが、ご来訪者の皆様、不十分な内容かつ間違いもあろうかという内容で、素通りをお願いいたします。

《大梵天王問佛決疑經》卷2:「如今世尊即過未之諸佛如來。亦復如是。此謂是諸佛名義也。梵王何以故然也耶。自性本覺。不可思知識。本無一切具名故。」(この書も中国撰述のようです。)

 



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