風月庵だより

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台湾の尼僧さんと信仰についての話

2006-08-19 23:51:39 | Weblog
8月19日(土)晴れ【台湾の尼僧さんと信仰についての話】

今朝の朝焼けはあまりに美しく、坐禅もしないで空に見入ってしまった。修行者としてはどうも怠け者である。

今日の休みは台湾からの留学生K尼を食事に招待した。私が腕を振るってご馳走を作った。K尼も本場仕込みの餃子を担当してくれて、久しぶりにご馳走が食卓に並んだ。風月庵は基本的に玄米菜食だが、多少の魚は頂く。しかし台湾の出家者は戒律で一切の動物性の食べ物は禁じられている。汁物のだしにも使えないので、今日は完全菜食の料理である。

さて昨日私は白衣の繕いをしたが、日常に着る服はそれほどに穴もあいていない。しかしK尼の身につけている法服はあちこちが繕われている。襟も何回も別布で繕ろわれている。K尼は夏の法服も冬の法服も2枚ずつしか持ってはいない。つくづくその姿勢とその穴のかがられた法服は美しく私の目には映る。

今日はK尼のお母さんがお亡くなりになるときの話をお聞きし感動した。お母さんはとても信心深い人で、いつも阿彌陀様の御名を心からお唱えになっていた人だという。そしてある日のこと体調はどこも悪くないと云うのに、「私は二週間後に亡くなるだろう」と云ったのだという。K尼は信じられなかったそうだが、お母さんはご自分の財産を、お葬式の時の僧侶へのお布施を残して、それ以外は全てあちこちのお寺に寄付してしまったのだという。

子供たちに分けたところでそれは何の意味もないこと。お寺に寄付をして功徳を頂くのだという。そして倒れる瞬間まで元気であったそうだが、予言通りにお亡くなりになったのだという。その体は数時間たっても柔らかく、お顔はつやつやと輝いていたという。K尼が出家したのはその後だそうだ。

「日本のお寺はどうして誰もが自由に出入りできないのでしょうか」と、K尼は言った。「台湾のお寺はいつも開け放たれていて、誰でも自由にお参りをし、坐禅をすることができます」「そして日本の仏像はどうして暗い中で見えないのでしょう」「台湾の仏像は大きくてどこからでも見えます。そしてその前で小さな自分を、大きな仏様の前で反省することができます」

本当にこの二点は日本の仏教寺院の特徴ともいえよう。それは寺院がそれぞれの地域の特定の檀家さんたちによって守られてきている事にも一因はあるだろう。寺は社会に開かれているようであるが、実は檀家さんの寺でもある。勝手に誰でも出入りすることはしづらい一面がある。

仏像については文化財好みの民族性にもよるであろう。芸術的な仏像や、彫刻として勝れた価値のあるものを好む傾向がある。礼拝の対象としての仏像を、民衆からかえって遠ざけてしまっているように思う。

仏像は礼拝の対象であること、帰依の気持ちを表す対象の一つであることに意味があるのに、二次的な価値観のほうが強くなってしまっていることは残念であると思う。寺も仏像も僧侶も、人々にとっては福田である。布施をし、信じることによって福徳を生み出す場所である。布施をすることによって、お金に対しての執着心を無くす助けともなる。

台湾ではその布施によって、僧侶たちは修行の日々を送ることができるのである。

一日と十五日には布薩(フサツ)といって、比丘・比丘尼それぞれ250戒と348戒を唱えその後合同で『梵網經(ボンモウキョウ)』を誦し、懺悔することのある僧は皆の前で懺悔するのだそうである。これに要する時間はいつも2時間半ぐらいだそうである。

日本の仏教は戒律の数も大乗戒(十重禁戒、三聚淨戒)なので少ないが、僧堂修行時代に『梵網経』を誦したことは数回の記憶しかなかった。永平寺や總持寺では布薩は行われているのであろうか。

それぞれの国の風土や民族性や歴史によって、宗教も培われていくのであり、単純に比較はできないが、台湾の寺院のありかたに学ぶべきことは多い。ただ台湾は僧侶の数が日本の比較ではない。一寺院に二,三百人はいるのだから、ほとんど家族だけで構成されている日本の寺院とは全く異なっている。

日本では仏教に対しての帰依の心を素直に持っている人々が少ないことは残念なことである。仏教を信仰として持てれば幸福なことなのだから。

今日は台湾のK尼を招待して教えを受けた一日であった。

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5 コメント

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文化の違い (うさじい)
2006-08-21 04:24:28
>「日本のお寺はどうして誰もが自由に出入りできないのでしょうか」と、・・・



K尼さまの言われること、いちいちごもっともでございます。

しかしながら、本堂正面の大戸は、いつでも開いていて誰でも自由にお参りができます。

そのため、泥棒も入ります。



>本尊様は、どうして暗いところにあるのか?

電気代が高いので、そんなに明るくできないし、日本家屋の構造上仕方がないのではないでしょうか。それに、参拝するには充分な明るさだと思いますが。

チョット薄暗いほうが有難さが増すと言う真理的な面もありますし。



また、財政上の理由から、それほど巨大な仏像は作れないのだと思います。



それぞれの文化の違いで、そうなっているのだと考えていただいたほうが宜しいのではないでしょうか。



私見ですが、台湾にしてもスリランカにしても、美術的に優れた仏像を見たことがありません。それに比して、日本の仏教美術の美しさは、それだけで信仰の世界を具現化している・・・と、思っています。

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訂正 (うさじい)
2006-08-21 04:26:08
>チョット薄暗いほうが有難さが増すと言う真理的な面もありますし



真理的は心理的の間違いです。
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うさじいさんへ (風月)
2006-08-21 17:34:31
このブログを書いた翌日、知り合いのお寺から寺報を頂戴しました。そこにやはりお寺がどこも閉まっていてお参りのできなかったことが書かれていました。



方丈様と奥様と西國33觀音のお寺をお参りしたのだそうです。お札やお守りはがっちりと売っていて、御利益の強調をしているのに、ご本尊様を全く拝めないこと、もしくはあまりに薄暗くてご尊顔を拝せないこと。



たしかに日本建築の構造上の問題もあるでしょうし、民族性もあると思いますが、西洋の教会にしてもタイや台湾のお寺にしても泥棒の問題はどうなっているのか、将来研究してくれて日本にあった且つ解放された本堂または仏殿ができるとよいと思います。



ところで大雄山の本堂は開放されていましたね。
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Unknown (うさじい)
2006-08-22 16:10:23
そうですね、一部を除いて開いておりました。



風月さんに逆らうわけではありませんが、本堂が閉まっている理由には、参拝者のマナーの悪さもあるのだろうと思います。その究極が泥棒です。

大事な仏像を盗まれたり、法具を悪戯されたら大変ですからね。



沢山の人がお参りされるお寺さんでは、それらの対策として閉まっているのでしょう。



泥棒に入られた私のところではありますが、本堂の鍵は(しつこいようですが)掛かっていません。

時折来る参拝者で、靴を履いたまま上がったり、梵鐘を勝手に撞いたり、鐘や太鼓を叩いていくものが結構います。



暗いと言うことですが、映画館の中でさえ、目が慣れれば見えるようになります。折角のお参りですから、そんなに急がずに心経の一遍でも唱えているうちには見えてくるのではないでしょうか。



私のところでは、随分開放されているほうだと思うのですが、立地条件もあって参拝者は少ないです。

読経会、写経会、坐禅会など檀家は勿論、地域の方にもご案内してますが、月に一度の読経会に10数名が集まるだけです。

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うさじいさんへ (風月)
2006-08-23 10:29:13
たしかに泥棒に入られますと、開放することには逡巡があります。私も賽銭箱ごと持って行かれたことがありました。



考えましたが、台湾もミャンマーも東南アジアの国々は僧侶の数が実に多いのですから、いつも誰かしらが、歩いていますので用心がよい、ということはあります。それ以上にお寺さんの物を盗むなどという恐れ多いことを人々はできないように教育されきっているといってもよいでしょう。



子どもの頃から仏教にふれ、事あるごとに有り難さと恐れ多いことを教えられていますから、ベースが違います。



南方の仏教は後生をはっきりと説いていますので、導きやすいということもあります。



合理的になりすぎた社会と、仏教界自身の自ら招いてしまった今の日本の仏教界の現状のように思います。



うさじいさんのお寺に泥棒が入りませんように。やはり鍵をかけてもよいのでは。開放する時間を決めてお参りして頂いたのでよいのではと思います。現状のお寺の構造ではたしかに難しい面があると思います。
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