7月8日(火)曇り【尼僧差別について考える】
先日「ジェンダーイコールな仏教をめざして」という公開シンポジウムが、本願寺築地別院で開かれ参加する機会を得た。一般社会でも女性に対しての差別は根強くあるが、仏教界でも各宗派にそれぞれある。その差別に対して、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、天台宗、曹洞宗の各尼僧侶がパネラーとして、それぞれの現状を発表された。
各宗派それぞれの事情があるので、並べてその差別の状況を同じようには論じられないが、厳然としてある差別に対して改めて考える機会となったのではないだろうか。
女性蔑視の状況は今に始まったことではないし、尼僧侶に対しての差別も長い歴史があることだ。このブログでも「苦難の尼僧史」として四回にわたって書いたことがある。日本に仏教が伝来して以来続いてきたことではある。社会は力関係で成り立っていて、男性優位の状況は長く続いているが、いずれにしても性別による差別は愚かな現象であることは論じるまでもないだろう。しかし、それが厳然としてあることも事実である。
私も出家して始めて差別を意識したといえる。出家するまではのびのびと生きていた、といってもよいほどである。女性はこれほどに下に見られるのか、おかしい、と首を傾げたことは、何回もある。
経典の中にも女性蔑視は見られる。『法華経』は女性の成仏を説いているので蔑視していないという意見もあるが果たして如何であろうか。女人成仏は説いているがあくまでも変成男子説である。龍女が仏に三千大千世界にも値するような宝珠を差し上げたので、そのご褒美として男子に身を変えて頂き成仏した、というお話である。『法華経』「提婆達多品」に書かれている。果たしてここには女性に対して公平な成仏が説かれていると読むことができるだろうか。
女性に対して、釈尊が公平に認めていらっしゃることが書かれた経典は『南伝大蔵経』のなかの律蔵巻四の中の「第十比丘尼けん(牛偏+建)度」には見受けられる。義母の摩訶波闍波提まかはじゃはだいが出家をのぞまれるのだが釈尊はお許しにならない。それを阿難尊者が釈尊の許可を取り付けて下さる会話にそれが表されている。
「女人若し如来所説の法と律とに於いて家を出でて出家せば預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を現証するを得べきや」という質問に対して「阿難よ、若し如来所説の法と律とに於いて家を出てて出家せば預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を現証するを得べけん」と、このように男女の差はないと答えていらっしゃる。ただこの後、比丘尼は比丘に従うことの数々が説かれることになるので、その解釈は一慨に差別とは言えないまでも諸手をあげて、「ほらね」と喜べないところがある。
ただ忘れてはならないことは、経典作者はおそらく全て男性であるだろう。この点を見逃してはならない。男性にとって都合のよいように書かれている事も多々あるだろう。
そしてまた忘れてはならないことは、全ての男性は女性から生まれているということである。本来蔑視などはできないはずなのである。女性差別の問題の根本は実は男性にあるといえよう。男性の問題なのである。つまり男性が女性差別思想を持っているとしたら、その点は未熟といってよいだろう。私も未熟ではあるが、女性差別思想はない。男性の人格全てを未熟と言っているのではないので誤解しないようにしてもらいたい。
曹洞宗に関していえば、先人の尼師僧の努力のお蔭で現在制度上は尼僧も男僧も差別はないことになっている。いまだお茶くみは尼僧と考えているような男僧さんがいるとしたら、それは人間として育っていない人とさえいってよいだろう。私自身は一役としてのお茶くみを決して低く見ているわけではないが。
このようなシンポジウムの難しさは、立場の違う人たちの問題が個々に違うので、視点の違いを明確に把握しないと、共通項である「女性」というだけでは進めないように思う。寺族と出家者である尼僧とは全く立場が違うのであるし、個々に考えなくてはならないだろう。尼僧のなかでも剃髪している尼僧と有髮の尼僧と同じには論じられないだろう。違いをはっきりとして個々の問題を明確にしていくことが大事なことであろう。
そして女性差別を唱えるだけではなく、それぞれ揺るぎない学びが大事なので、お互いに信仰を深め合うような集まりが大事ではないかと考えている。男僧よりも学びが足りないのであれば教えて頂くし、とにかく差別されてもはね返すだけの力が必要だろう。また差別に対して、折々に話し合って差別思想を払拭するように男性を導く必要もあるだろう。差別するような男性はまだまだ未熟なのだから。
ただ制度としての差別があるならば、それは声を大にして制度を変革する必要もあるだろう。有り難いことに曹洞宗には尼僧と男僧に関してはそれはない。
問題とは違うが、現在曹洞宗の尼僧にとって一番の問題は、尼僧寺の跡継ぎをどんどん男僧にしてしまっていることではなかろうか。それを実は一番危惧している。これから出家したい女性がでてきても寺が無くてはますます男僧の下で働くだけになってしまうだろう。尼僧さんたちが、真面目に、一生懸命つとめて立派にしたお寺をどうしてどんどん男僧にあけ渡してしまうのであろうか。尼僧志望者がいないからというが、この問題こそ、尼僧たちが真剣に取り組まなくてはならない問題ではないかとと、私は思っている。
私自身は差別する人が周りにいないという環境にあるのと、私自身は女性ではあるが、私が私自身を女性であることに差別しないで生きているので、その視点からの意見にすぎない。
区別はあるが、差別は、あってはならないことである。当たり前のことである。
先日「ジェンダーイコールな仏教をめざして」という公開シンポジウムが、本願寺築地別院で開かれ参加する機会を得た。一般社会でも女性に対しての差別は根強くあるが、仏教界でも各宗派にそれぞれある。その差別に対して、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、天台宗、曹洞宗の各尼僧侶がパネラーとして、それぞれの現状を発表された。
各宗派それぞれの事情があるので、並べてその差別の状況を同じようには論じられないが、厳然としてある差別に対して改めて考える機会となったのではないだろうか。
女性蔑視の状況は今に始まったことではないし、尼僧侶に対しての差別も長い歴史があることだ。このブログでも「苦難の尼僧史」として四回にわたって書いたことがある。日本に仏教が伝来して以来続いてきたことではある。社会は力関係で成り立っていて、男性優位の状況は長く続いているが、いずれにしても性別による差別は愚かな現象であることは論じるまでもないだろう。しかし、それが厳然としてあることも事実である。
私も出家して始めて差別を意識したといえる。出家するまではのびのびと生きていた、といってもよいほどである。女性はこれほどに下に見られるのか、おかしい、と首を傾げたことは、何回もある。
経典の中にも女性蔑視は見られる。『法華経』は女性の成仏を説いているので蔑視していないという意見もあるが果たして如何であろうか。女人成仏は説いているがあくまでも変成男子説である。龍女が仏に三千大千世界にも値するような宝珠を差し上げたので、そのご褒美として男子に身を変えて頂き成仏した、というお話である。『法華経』「提婆達多品」に書かれている。果たしてここには女性に対して公平な成仏が説かれていると読むことができるだろうか。
女性に対して、釈尊が公平に認めていらっしゃることが書かれた経典は『南伝大蔵経』のなかの律蔵巻四の中の「第十比丘尼けん(牛偏+建)度」には見受けられる。義母の摩訶波闍波提まかはじゃはだいが出家をのぞまれるのだが釈尊はお許しにならない。それを阿難尊者が釈尊の許可を取り付けて下さる会話にそれが表されている。
「女人若し如来所説の法と律とに於いて家を出でて出家せば預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を現証するを得べきや」という質問に対して「阿難よ、若し如来所説の法と律とに於いて家を出てて出家せば預流果、一来果、不還果、阿羅漢果を現証するを得べけん」と、このように男女の差はないと答えていらっしゃる。ただこの後、比丘尼は比丘に従うことの数々が説かれることになるので、その解釈は一慨に差別とは言えないまでも諸手をあげて、「ほらね」と喜べないところがある。
ただ忘れてはならないことは、経典作者はおそらく全て男性であるだろう。この点を見逃してはならない。男性にとって都合のよいように書かれている事も多々あるだろう。
そしてまた忘れてはならないことは、全ての男性は女性から生まれているということである。本来蔑視などはできないはずなのである。女性差別の問題の根本は実は男性にあるといえよう。男性の問題なのである。つまり男性が女性差別思想を持っているとしたら、その点は未熟といってよいだろう。私も未熟ではあるが、女性差別思想はない。男性の人格全てを未熟と言っているのではないので誤解しないようにしてもらいたい。
曹洞宗に関していえば、先人の尼師僧の努力のお蔭で現在制度上は尼僧も男僧も差別はないことになっている。いまだお茶くみは尼僧と考えているような男僧さんがいるとしたら、それは人間として育っていない人とさえいってよいだろう。私自身は一役としてのお茶くみを決して低く見ているわけではないが。
このようなシンポジウムの難しさは、立場の違う人たちの問題が個々に違うので、視点の違いを明確に把握しないと、共通項である「女性」というだけでは進めないように思う。寺族と出家者である尼僧とは全く立場が違うのであるし、個々に考えなくてはならないだろう。尼僧のなかでも剃髪している尼僧と有髮の尼僧と同じには論じられないだろう。違いをはっきりとして個々の問題を明確にしていくことが大事なことであろう。
そして女性差別を唱えるだけではなく、それぞれ揺るぎない学びが大事なので、お互いに信仰を深め合うような集まりが大事ではないかと考えている。男僧よりも学びが足りないのであれば教えて頂くし、とにかく差別されてもはね返すだけの力が必要だろう。また差別に対して、折々に話し合って差別思想を払拭するように男性を導く必要もあるだろう。差別するような男性はまだまだ未熟なのだから。
ただ制度としての差別があるならば、それは声を大にして制度を変革する必要もあるだろう。有り難いことに曹洞宗には尼僧と男僧に関してはそれはない。
問題とは違うが、現在曹洞宗の尼僧にとって一番の問題は、尼僧寺の跡継ぎをどんどん男僧にしてしまっていることではなかろうか。それを実は一番危惧している。これから出家したい女性がでてきても寺が無くてはますます男僧の下で働くだけになってしまうだろう。尼僧さんたちが、真面目に、一生懸命つとめて立派にしたお寺をどうしてどんどん男僧にあけ渡してしまうのであろうか。尼僧志望者がいないからというが、この問題こそ、尼僧たちが真剣に取り組まなくてはならない問題ではないかとと、私は思っている。
私自身は差別する人が周りにいないという環境にあるのと、私自身は女性ではあるが、私が私自身を女性であることに差別しないで生きているので、その視点からの意見にすぎない。
区別はあるが、差別は、あってはならないことである。当たり前のことである。
そこで尼寺を維持するのに、女僧不足と言う実態があり、女僧をリクルートしなければならない訳ですが、これはどう解消できるのでしょうか。
現代においては、自主的に出家する人と、お寺に生まれて世襲的に出家する人が居ると思います。
世襲的に出家する人は、圧倒的に男性だと想像がつきます。何故なら尼寺の住職が娘を産んで、その娘を出家させるという話は余りありそうにないからです。
男女同権であれば、本来女僧も積極的に配偶者を持ち、娘を世襲させても良いはずです。そうならないのは男性社会(或いは仏教界)の規範に屈しているか、女僧自身が配偶者(または男の愛人)を持って子供を生むことを回避しているかでしょう。多分に後者ではないか思います。
そうすると自主的に出家する人で女性を獲得しなければなりません。では自主的に出家する人とはどんな人かと考えてみました。
1.仏教に興味を持ち、勉強しており、それでも飽き足らず、自ら仏教に投じて悟りを開こうとする人。または仏教を通じて衆生を救おうと言う人。
2.何らかの悩み、迷い、苦しみを抱えている人で、縁があって、その解決を仏教に求めた人。
3.その他(どんなケースがあるか想像も出来ませんが、例えば生活に行き詰まった挙句、お寺さんにたまたま救済されて仏道に入るとか)
これら自主的な場面に於いても女性は少なそうです。原因は女性は仏教に帰依することはあっても、仏道に入ることに対して差別意識があるからではないでしょうか。ここで言う差別とは優劣ではなく、人生における生き方を選択する上で、多くの女性は女僧と言う生き方に、プライオリティが低いのではないかと言うことです。
ここまでの勝手てな考察によりますと、女性は自ら女僧への門戸を閉ざしていることになります。これを打開するためには、今の女僧の皆さんが奮起して、女僧を目指すことに夢と希望があることを実証しなければならないのではないでしょうか・・・。
もしもこのような私の議論が当っているとすると、女僧不足解消問題は、輪島塗の伝統を絶やすなとか、如何に農家に嫁を誘致するかと言った問題と変わらなくなります。そこには深遠なる仏教の哲学、衆生救済の実践とは無縁の議論です。
従ってこれまでの私の議論は的外れと結論出来ます。思索したつもりが、空しい結論となりました。色即是空(意味は分っておらず不遜を承知)でお許しを得たいと思います。
たしかにいくつかのことを考えられますね。私自身の問題として、今のところ継がしたい寺を持ってはいないのですが、バトンタッチしたいこの生き方はあります。尼僧として仏教を灯りとして生き生き方です。そんな生き方をしてみたいという人がいたらバトンタッチしたいですね。報恩としては一人でも弟子を残さなくてはならないのですが。
今の日本の家族に寺を引き継いでいく生き方は、男僧には向いているかもしれませんが尼僧にはむいていないでしょう。本来僧侶は出家者であるべきなので、妻帯・夫帯しない姿が本来でしょうから、尼僧はそれを選んでいると思います。男性の場合は今の日本では妻帯のかたちが自然でしょうし、そうじゃないといっても変えられないでしょう。
日本には、立派な尼僧さんたちもたくさんいます。こんな生き方があるということを知らせる意味でも、私はこのブログを書いているつもりです。
なりたい人がいれば弟子をとってくださる尼僧さんを紹介したいと思っています。
しかし現状では今後女性が積極的に出家する状況も考えにくいと思います。ここは先ず今の女僧の方々が結束するしかないのでは。仏教界にも階級、ランキングのようなものはあるのでしょうか。もしあるとすればそれは男女の区別がありますか。もし男女が同じ土俵で階級を争うならば、差別のある現時点では不利でしょう。
ゴルフでも、囲碁将棋でも、あらゆるスポーツでも男女別々のランキング制度です。余談ですが政治は遅れています。議員の男女枠を設けるべきです。
先ずは運動をして、男女別の階級制度にするべきでしょう。そして女僧の中できちっとした階級ピラミッドを築き、人数が少ないながら、一枚岩になれば発言力が増すのでは。
何も知らないので机上の空論でした。
しかし、私自身はこの点では今は制度的には改善されていますし、男僧寺に昔ほどの従属は強いられてはいないでしょうし、あまりこの問題に全面的にかかわるよりは、自分の足場をしっかりとしたいと思います。自分が研究していることやらで手一杯ですので、これ以上問題視することは増やせない状況です。
たしかに尼僧の数が極度に少なくなっていますから、尼僧問題を考える上では、少子化問題と同じように大きな問題であります。私が尼僧団などの役員の立場でしたら、このことできっと奮闘することになるでしょうが、そのような立場にいませんので、遠吠えしているだけのことです。
ただなかなか出家の生き方は奥が深いと思いますので、出家したいという人がいればお勧めしたいと思います。
ところで、東京は7月がお盆でしたっけ?
こちらは来月ですが、今、施食會やら棚経やらに向けた準備に追われております。時間がやたら足りません・・。
どうぞ、ご自愛の上お過ごしくださいませ。
(^人^)
ご自分のお寺を持たずにあちこち飛び回って下さったので、晩年はルンビニ園でお過ごしになったようですがね。
ところで7月の棚経で目下バテています。まだ疲れがとれません。あちこち遠方をまわるのでどうしても車を使いますが、この50度を越す車の熱にやられてしまうのですね。お経はこちらも癒されるのでかえってよいのですが。でも頑張りましょう。貴尼もお大事に。
私は田舎で育ちました。かなり昔の話ですが、その頃幼稚園教育が始まっていました。田舎町のことで幼稚園は2つ、保育園が4つ位あったでしょうか。小学一年に入学した日、先生が「何何幼稚園出身の人、手を上げて、何々保育園の人、手を上げて」と聞きました。私はそのどれにも手を上げることが出来ずに、沈黙しました。家庭の中、その近縁しか知らなかった私が、世間(もどき?)に出て早速味わった劣等感でした。
その中にルンビニ幼稚園と言うのがあったのです。お寺さんがやっていた幼稚園です。
親は決して子供の教育に関心がなかったわけではありません。それなりの機会を与えてもらいましたが、何故か幼稚園にはやってもらえませんでした。
小島老師が晩年を過ごされたルンビニ園は新潟にあります。尼僧団が協力して戦災孤児たちを育てるために設立された園です。今は家庭の事情などで大変な子供たちを預かっています。尼僧さんが園長先生です。
幻海さんの家のちかくの幼稚園はおそらくお寺が経営している幼稚園だと思います。
ルンビニ園の所在地ですが、
確か富山県だったと思います。
横レスにて失礼いたしました。(^人^)
コメントまで丁寧にお読みいただき恐縮です。
暑いですからくれぐれも体調にはお気をつけくださいませ。