風月庵だより

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いじめ

2006-10-04 23:11:40 | Weblog
10月4日(水)曇り【いじめ】

北海道滝川小学校というところで、小学六年生の女の子が自殺したという。昨年の9月9日、教室で首を吊っていたのだという。なんということであろうか。僅か12歳の少女が首を吊るなどという悲しいことを、なんでしなくてはならなかったのであろうか。同級生達から仲間はずれにされていたのだという。そして修学旅行から帰った8日後に、少女は死を決行したのである。死を決意したのは修学旅行でも、あまりに我慢できない何かでもあったのだろうか。その前から仲間はずれの状態は続いていたのだという。少女は今年の1月6日に病院で亡くなってしまったそうである。

最近故郷の同窓会に帰ったばかりなので、私たちの小学校時代を鮮明に思い出しているが、私たちの時代には虐めなどはなかった。弱い子はみんなで庇ったし、今でもそんな感じである。私を含め皆貧しい時代であったから、着ている物も充分ではなかったが、誰もそんなことを虐めの対象とも思わなかった。裕福な家の子でもそれを誇らなかった。勉強ができても威張らなかったし、できなくてもなんでもなかった。みんな一緒に遊んだ。でも喧嘩もした。

私は一度ガキ大将を相手に喧嘩をし、相手を泣かせて女の先生にすごく叱られて立たされた記憶はある。相手が弱ければ決して喧嘩をしなかったであろう。いつも弱い子を皆で守っていた。誰かが立たされれば、陰でハラハラと心配しながら、許されるまでお互いに待っていた。因みにそのガキ大将さんとは今も仲がよい。

古きよき時代のように、なんとか戻ることはできないのであろうか。なぜこんなに子供たちが虐めに苦しむようになってしまったのだろう。大人にも子供にも問題があるだろう。人を蹴落としてでも上になろうという競争社会、お金さえあればなんでもよいという金権社会、ごはんやお味噌汁の味を忘れた食の乱れ、子供たちが家を手伝わなくなったこと、女性が家庭を大事にしなくなったこと、男性が家の手伝いもしないで遊び歩くこと、等々。

善悪の基準を社会が忘れてしまったこと、すじの通った生き方を社会が忘れたこと、等々。

この今の日本の虐めなどについて、皆さんにもいろいろな考えがあると思う。なにか少しでも子供たちを救えることがあったら、実行しよう。

今日たまたま「袖すりあうも多生の縁」について話していた。そして帰りの電車の中で『一遍上人語録』を開けたら、すぐに次の言葉があった。

「山門延暦寺のこと横川よかわの真縁上人へつかはさるる御返事  

此世の対面は多生の芳契ほうけい、相互あいたがいに一仏に帰する事、これよろこびなり。云々」

此世の対面は多生の芳契:此の世でこうして対面するのは、生まれ変わり死に変わりして、多くの生をうけてきた、過去世からの芳しい契り、である。

今の子供たちにもこんな言葉を学んで貰いたいし、今の大人にもこんな言葉を思い出して貰いたい。虐めで友だちを自殺に追い込むことはよくないことだと認識しよう。こういうことを言うと、その友だち達の人権のみについて反論が返ってくるかもしれない。もしそうだとしたらそのような社会が間違っている、と私は言いたい。

亡くなった少女の冥福を、仏菩薩に祈りお頼みします。

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5 コメント

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昔も (晴兵衛)
2006-10-06 00:40:00
自殺について考えたとき、私自身に振り返ってみますと、まず死に対する恐れがありました。死にたいと思ったことはありませんが、やはり死とは恐怖なのです。

現代社会で、ガンの次に死亡率が高いのが自殺だと聞いて、暗澹ある思いになります。イジメの問題でも、昔でも(30年ほど前)似たような事案はありましたが、割りと「カラッ」としていたように思います。私の幼少時代は、それは貧しい家庭でしたが、決して暗くありませんでした。今は、裕福になりすぎたのかもしれません。貧乏人は、食べていくのに必死で、余計な事をあれこれ考える余裕がありませんでした。



これと言った解決方法はわかりませんが、死にたいと少しでも頭に過ぎったら、「私の所へ来なさい」と言ってやりたいです。
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生死は人に任せよ (うさじい)
2006-10-06 05:50:25
臨済宗の偉い方が自殺され、マスコミからコメントを求められた本師が「生死は人に任せよ」と答えておられたことを思い出します。



その人の人生で、それぞれの生き方だと言う捉え方をしました。突き放した言い方かもしれませんが、優れた禅者の大悟徹底された境地を感じました。

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晴兵衛さんへ (風月)
2006-10-06 14:32:21
イジメというのはある程度は子どもの社会に付きものだとは思いますが、友を死に追いやるほどのイジメが急増してきたのは、社会の状態としては、経済的に豊かになってからであることは確かです。



即それが原因とは言い切れませんが、切り離せない現象でしょう。いじめられて自殺を子供たちが選ぶようになったのは、私の記憶では25年ぐらい前から、度々起きてしまっているのではないかと思います。寺子屋の生徒たちと、そのことについて話し合ったり、ご供養を共にしたものです。



今回のことでも思いますが、大人たちの対応も間違っているのではないでしょうか。友を死に追いやるようなことをした子供たちや、導ききれなかった教師たちと共に考える機関が必要ではないでしょうか。教育委員会はその役をなしてはいないようです。いかに隠蔽するか、頭を寄せ合っている大人の姿を見て、子供たちが善導されるはずがありません。



友を死に追いやることは悪いことなのだ、と大人がはっきりと言わなくてはならないと考えます。

コメント有り難うございました。
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うさじいさんへ (風月)
2006-10-06 14:41:26
確かにその老師に対しての師の見解はよく覚えています。「それぞれに任せる」ということもありましょうが、それは分別のできた大人には言えることだと考えます。



子どもの場合は大人の自殺とは全く異なる視点を持つ方がよいのではないかととらえます。



臨済の老師の場合はご病気であったようです。本師の言は、あれこれと詮索するマスコミに対しての牽制でもあった、という面もあったのではなかろうか、と思います。



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風月様 (うさじい)
2006-10-06 20:40:13
仰るとおりです。子供の場合は大人と異なる視点を持つべきだと思います。



ただ、この書き込みの前に色々書いては消しを繰り返していました。ただ、今の現状のような宗教観も倫理観も持たない大人が育てた子供たちが、果たしてイジメをしない子供に育つのだろうかと考えた時、無力さを感じたものですから、短絡的な書き込みになりました。

老師の発言に対してもその通りだと思います。言い訳になりました、すみません。

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