1月13日(日)曇りのち晴れ【自分自身にも願うこと】
先日、嬉しいことがあった。とてもしっかりとした少年の声を電話で聞くことができたこと。彼のお父さんは、彼がお母さんのお腹の中にいるときに、ご病気で亡くなってしまった。彼が3歳ぐらいからだろうか、毎年ささやかなるクリスマスプレゼントとお年玉を送っている。その少年がはや、中学2年生になった。そして、去年までは、私と電話で話すのも照れくさそうであったのに、今年の電話の声は声変わりもして、話の応対もしっかりとしているのだ。「いつも気持ちばかりでごめんね」と私が言えば、「そんなことはありません、有り難うございます」とはっきりとした答えが返ってくる。
遠くに引っ越しをされたので、六歳頃に一度会ったきりだが、その頃は元気なやんちゃな坊やだった。坊やが年々に成長する様子をお母さんからうかがってはいたが、いつの間にかしっかりした少年に育っていてくれていて本当に嬉しかった。
彼のお兄ちゃんやお姉ちゃんからも、時折にお手紙を頂いて、それは私の宝物なのだが、私にとっては、お父さんの顔も知らずに育った彼の事はことさらに気懸かりであった。きっと母親や兄弟や他の人にも分からない彼の心の葛藤はあるに違いない。でも彼なりにその葛藤を乗り越えて、少年の日々を送っているのだろうと思う。「元気でね」というのだけが私の願いである。元気でさえあってくれれば、それで十分有り難い。
世に「葬式仏教」などと批判的な表現がある。しかし、私は僧侶として、人の死を弔うことの一役について、それもこの世における大事な一役として受けとめている。釈尊の頃はたしかに葬祭には関わっていなかったし、教えのなかにはそれはない。それはキリスト教においても同じである。人間社会での変化である。変化しないものは一切無いことを教えられたのは釈尊である。ただ必要以上に高いお布施は問題にすべきだが、高いのは葬儀社への支払いなのではなかろうか。僧侶へのお布施については、忌憚無く相談したらよいのではなかろうか。また決して院号などに拘ることはないのだし、現在の院号の授与については問題があると、僧侶としてヒヨコの私ではあるが、私はそう思う。
江戸時代の鈴木正三すずきしょうさん(1579~1655)は世間の仏法を「慰み仏法」「でき口仏法」「だて仏法」「へご仏法」などと批判なさっている。
他の僧侶の方のことをとやかく言う気は私には無い。ただ、自らのこと。僧侶というにはあまりに未熟、未熟ながら今年も坐禅を怠らず、研究生活を送らせてもらいたいと願っている。「元気でね!」この五蘊に意識されている「私という何か」。雲散霧消するまでの間のこと。(私って一体なんでしょうね?)
あ、皆さんも、どうぞ、お元気で。
(昨日、めまいがひどく、どうしたことかと心配していました。高校時代の友人たちと近所の誼よしみ会をしたのですが、そこで、優しい友が首と肩をマッサージしてくれました。たちどころにめまいが治りました。肩や首筋が懲りすぎてもめまいが起きるようです。お互いに、体も修正しつつ上手に動いて貰うように気を付けましょう。)
先日、嬉しいことがあった。とてもしっかりとした少年の声を電話で聞くことができたこと。彼のお父さんは、彼がお母さんのお腹の中にいるときに、ご病気で亡くなってしまった。彼が3歳ぐらいからだろうか、毎年ささやかなるクリスマスプレゼントとお年玉を送っている。その少年がはや、中学2年生になった。そして、去年までは、私と電話で話すのも照れくさそうであったのに、今年の電話の声は声変わりもして、話の応対もしっかりとしているのだ。「いつも気持ちばかりでごめんね」と私が言えば、「そんなことはありません、有り難うございます」とはっきりとした答えが返ってくる。
遠くに引っ越しをされたので、六歳頃に一度会ったきりだが、その頃は元気なやんちゃな坊やだった。坊やが年々に成長する様子をお母さんからうかがってはいたが、いつの間にかしっかりした少年に育っていてくれていて本当に嬉しかった。
彼のお兄ちゃんやお姉ちゃんからも、時折にお手紙を頂いて、それは私の宝物なのだが、私にとっては、お父さんの顔も知らずに育った彼の事はことさらに気懸かりであった。きっと母親や兄弟や他の人にも分からない彼の心の葛藤はあるに違いない。でも彼なりにその葛藤を乗り越えて、少年の日々を送っているのだろうと思う。「元気でね」というのだけが私の願いである。元気でさえあってくれれば、それで十分有り難い。
世に「葬式仏教」などと批判的な表現がある。しかし、私は僧侶として、人の死を弔うことの一役について、それもこの世における大事な一役として受けとめている。釈尊の頃はたしかに葬祭には関わっていなかったし、教えのなかにはそれはない。それはキリスト教においても同じである。人間社会での変化である。変化しないものは一切無いことを教えられたのは釈尊である。ただ必要以上に高いお布施は問題にすべきだが、高いのは葬儀社への支払いなのではなかろうか。僧侶へのお布施については、忌憚無く相談したらよいのではなかろうか。また決して院号などに拘ることはないのだし、現在の院号の授与については問題があると、僧侶としてヒヨコの私ではあるが、私はそう思う。
江戸時代の鈴木正三すずきしょうさん(1579~1655)は世間の仏法を「慰み仏法」「でき口仏法」「だて仏法」「へご仏法」などと批判なさっている。
他の僧侶の方のことをとやかく言う気は私には無い。ただ、自らのこと。僧侶というにはあまりに未熟、未熟ながら今年も坐禅を怠らず、研究生活を送らせてもらいたいと願っている。「元気でね!」この五蘊に意識されている「私という何か」。雲散霧消するまでの間のこと。(私って一体なんでしょうね?)
あ、皆さんも、どうぞ、お元気で。
(昨日、めまいがひどく、どうしたことかと心配していました。高校時代の友人たちと近所の誼よしみ会をしたのですが、そこで、優しい友が首と肩をマッサージしてくれました。たちどころにめまいが治りました。肩や首筋が懲りすぎてもめまいが起きるようです。お互いに、体も修正しつつ上手に動いて貰うように気を付けましょう。)
何時ものことと放置しておくのは、良くありません。
原因を取り除いて、健康な毎日をお過ごしください。
たしかにめまいやら、胃の具合まで悪くなりまして、このような体の状態は初めてなので、慎重になっています。
今日も治療院に行ってきました。気をつけます。あらためて御礼のお手紙を出しますが、いろいろとお気遣い頂き有り難うございました。
智恵さんもお忙しいでしょうが、演劇の世界でますますご活躍下さい。楽しみにしています。
お元気で。
素敵な写真、拝見させていただいています。特に雲と夕日などは、感動して私も挑戦しております。
葬儀については、この大切さについて積極的に呼びかける必要があると感じ、昨年より試みています。戒名も葬儀式も、お金の問題で軽減・省略されることは忍びないことですね。
お体ご自愛ください。
しかし、ご葬儀については本当に大事に取り組みたいと思います。今日はある霊園での法事に伺いましたが、明日は僧侶も何も無しで埋葬する家があり、この頃はそのような家が多いと聞きました。残念に思いました。キリスト教でも仏教でも宗教者に見送られたほうがよいのではないかと思います。今日の法事の子供たちは、私とお経を唱えるのが大好きなので、嬉しいです。子供たちが心優しく育ってくれることが願いです。お経やお唱えの波動には、子どもの心の襞に優しさを植え込んでいくという思いがあります。
コメント有り難うございました。