役所広司の第一回監督作品「がまの油」という映画を見てきた。
主人公である父親(役所広司)は奔放な性格ではあるが、辣腕のデイトレーダーである。
気立てのいい妻(小林聡美)、そして素直な息子(瑛太)がいて、3人は平穏に暮らしている。
そんなある日、少年院から出所する親友(澤屋敷純一)を迎えに行った息子が、交通事故
で意識不明の重態になる。責任を感じる親友、交通事故のことを知らされず苛立つ息子の
恋人(二階堂ふみ)。物語りはやがて息子の死を迎える。最愛の息子の死、親友の死、
愛する恋人の死、それぞれが、受け止めなければならない「死」をどういうふうに考えるのか、
そんなストーリー展開である。最愛な人の突然の死、どうあがいても納得のいく答えなぞない。
昔、出会ったガマの油売りが言った「人は2度の死がある。一度は現世から体がなくなる時、
2度目は人々の中の記憶から消えた去った時」そんな言葉を思い出し救われる。最愛の人を
本当の意味で失うことは悲し、だから彼に2度目の死が来ないように、覚え続けて生きていこう。
そんなメッセージであったように思う。
役所広司が出演した映画で、1年半前に公開された「象の背中」というのを思い出す。
人生の円熟期を迎えていた主人公(役所広司)がある日突然、末期の肺がんで余命半年と
宣告される。苦悩の日々の主人公、彼は残された時間に、今まで出会った大切な人たちと
直接会って、自分なりの別れを告げようと決意する。それから海辺のホスピスに移り、そこで
穏やかな死を迎えるたいと願う。しかし死が迫るに従って乱れる心、自分の死をどう受け入れ、
どんな気持ちで死を迎えるか、そんな映画であったように思う。
「死」、この世に生まれたからにはいずれ訪れてくる。人が生きていく上で付いて回る「死生観」。
死生観とは、辞書を引くと、死を通した生の見方をいう。と書いてある。
人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか? 生きることとは何か?死ぬこととは何か?
子供の時代、死ということを考えると、必ず不安感と恐怖感にさいなまれていたように思う。
両親はいずれ死んでしまう。死んでしまえば自分は一人取り残されてしまう。その時の不安と恐怖。
次に襲ってきたのは自分が死んだらどうなるのだろうということ。死んだら、どう考えても自分が再び
この世に現われる可能性はない。では自分の魂(自分のこの感情)はどこへいくのか、何処にも
行き場がない。何千年何万年の時が経過しても、私の魂は闇の中をさまよい続けその先がない。
わずかな星が瞬く暗黒の宇宙が頭の中に広がり、その冷たい闇の中を必死でさまよい続ける。
振り払っても振り払ってもその情景は頭の中から消えてくれない。蒲団の中で恐怖に打ち震える。
一睡もできず、白々とした朝を迎えたことが何度もあった。
大きくなるに従って、子供の頃の恐怖は薄れていった。薄れたというより現実の世界の出来事で
考えることが多く。「死」についてあまり深く考えなくなったということで、先送りして行ったのであろう。
したがって、死後のことについて自分の中で納得いく答えを見つけたわけではない。
しかし両親が亡くなり、自分も次第に歳をとってくれば、またぞろ「死」ということが現実になってくる。
「次は自分の番だ」そう思うのである。
宗教は死後の世界を語ってくれる、「冥土の旅」「生れ変り」「あの世」「天国と地獄」「輪廻」、
基本的には肉体は滅びても魂は残る、ということで人々を恐怖から救ってくれるのかもしれない。
しかし宗教で言う死後の世界も誰が体験したわけではなく、信じるに足らない作り話であろう。
死んだら何も残らない。魂ということすら存在し得ない。なぜなら焼き場で幾ばくかの骨と空に舞い
上がっていく煙となって四散しまうのだから、魂の存在する場所すら残らないのではないだろうか。
だから本当は死後の世界では何にも考えられず、何も残らない「無」の世界が正解なのであろう。
しかし、それでは私は死を前にした時に、気持のよりどころとしての納まりが悪いのである。
映画「ガマの油」ではないが人は2度死ぬ。人の記憶から消えた時が本当の死、という先送りの
考え方もある程度は気持ちのよりどころとしては救いになるのかもしれない。
「死」を一人称、二人称、三人称に分けて考えると、その重さがわかるという。
三人称の死、それは遠くの他人、一般的な「死」として当たり前の現象として受け入れやすい。
二人称の死、ごく親しい人(家族や友人)の死、これを受け止めるにはある程度の時間を要す。
そして一人称としての私の死、いざこれが直近の問題になったとき、これを受け入れるためには
内面の葛藤なくして納まりはつかないでのであろう。信仰心のない私は今さら宗教には頼れない。
やはり自分なりの死生観をもつ必要はあるのだろうと思っている。
私はどちらかといえば理系の人間、世の中を論理だって考えなければ気がすまないタイプである。
「人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか?生きることとは?死ぬこととは何か?」 その解答も
科学的な根拠に基づいた納得を得ようとしがちである。今まで読んできた科学的な読み物の中
から自分としては比較的収まりの良い死生観を書いてみる。
「汝とは汝の食べた物そのものである」。私達の体はたとえどんな細部であっても、それを構成する
ものは元をたどると食物に由来する元素なのである。ここにマウスを使った実験がある。
アイソトープ(同位体)を使ってアミノ酸に標識をつける。そしてこれをマウスに3日間食べさせた。
このアイソトープ標識は分子の行方をトレース(追跡)するのに好都合な目印となる。
餌として口から入ったアミノ酸はマウスの体内で燃やされてエネルギーとなり、燃えカスは呼吸や
尿となって速やかに排泄されるだろうと予想された。しかし結果は予想を鮮やかに裏切っていた。
標識アミノ酸は瞬く間にマウスの全身に散らばり、その半分以上が脳、筋肉、消化管、肝臓、
膵臓、脾臓、血液などありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となったのである。
そして三日間、マウスの体重は増えていなかった。これはいったい何を意味しているか?
マウスの身体を構成していたタンパク質は三日間のうちに、食事由来のアミノ酸に置き換えられて、
その分、身体を構成していたタンパク質が捨てられたということである。
標識のアミノ酸はちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを目に見えるように
してくれたのである。まったく比喩ではなく生命は行く川の流れの中にあり、私たちが食べ続けなけ
ればならない理由は、この流れを止めないためであったのだ。さらに重要なことはこの分子の
流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互関係を保っているということだった。
個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかしミクロレベルでは、
たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み(よどみ)」でしかないのである。
生体を構成している分子はすべて分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。
身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
だから私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。
分子は環境からやってきて、一時淀みとしての私達を作りだし、次の瞬間にはまた環境へと解き
放されていく。つまり、そこにあるのは流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は
代わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということである。
私という人間は65年前、大きな流れの中に産み落とされ、流れの中に小さな「淀み」を作った。
その淀みは次第に大きくなっていく。その淀みにはあらゆるものが流れ込みまた流れ出ていった。
その淀みが作用して、新たに3つの小さな淀みが生まれていく。年月を経てやがて最初にあった
淀みは力を失い、大きな流れの中に消えていくだろう。しかしそれは淀みとしては消えるだけで、
そこを流れていた構成物質は大きな流れに戻り、また流れ続ける。そしてやがてまた別の淀みに
捕えられるのかもしれない。当然、私の魂も淀みが消えたときに霧散してしまう。そして別の淀みに
捕えられた時にそこで別の魂を作る構成要素になることがあるのかもしれない。
我々自身や我々の環境を構成している分子や原子はこの地球上から出て行くことはない。
この宇宙に地球が存在する限り、私を構成していた要素はこの地球にあり続けることになる。
子供の時見た「暗黒の宇宙」、その宇宙の漠とした空間が対象ではなく、自分を流れていった
物質は地球上に限って、散らばって行くということをイメージしても間違いではないだろう。
死の床に着いたとき、私の頭は高原のさわやかな景色を想像し、自分の体はハラハラとミクロの
単位でほどけていく、そしてその粒子が高原を吹き抜ける風に乗って四方八方に散って行く。
今はそんなことを思いながら、その時を迎えたいものだと思っている。
主人公である父親(役所広司)は奔放な性格ではあるが、辣腕のデイトレーダーである。
気立てのいい妻(小林聡美)、そして素直な息子(瑛太)がいて、3人は平穏に暮らしている。
そんなある日、少年院から出所する親友(澤屋敷純一)を迎えに行った息子が、交通事故
で意識不明の重態になる。責任を感じる親友、交通事故のことを知らされず苛立つ息子の
恋人(二階堂ふみ)。物語りはやがて息子の死を迎える。最愛の息子の死、親友の死、
愛する恋人の死、それぞれが、受け止めなければならない「死」をどういうふうに考えるのか、
そんなストーリー展開である。最愛な人の突然の死、どうあがいても納得のいく答えなぞない。
昔、出会ったガマの油売りが言った「人は2度の死がある。一度は現世から体がなくなる時、
2度目は人々の中の記憶から消えた去った時」そんな言葉を思い出し救われる。最愛の人を
本当の意味で失うことは悲し、だから彼に2度目の死が来ないように、覚え続けて生きていこう。
そんなメッセージであったように思う。
役所広司が出演した映画で、1年半前に公開された「象の背中」というのを思い出す。
人生の円熟期を迎えていた主人公(役所広司)がある日突然、末期の肺がんで余命半年と
宣告される。苦悩の日々の主人公、彼は残された時間に、今まで出会った大切な人たちと
直接会って、自分なりの別れを告げようと決意する。それから海辺のホスピスに移り、そこで
穏やかな死を迎えるたいと願う。しかし死が迫るに従って乱れる心、自分の死をどう受け入れ、
どんな気持ちで死を迎えるか、そんな映画であったように思う。
「死」、この世に生まれたからにはいずれ訪れてくる。人が生きていく上で付いて回る「死生観」。
死生観とは、辞書を引くと、死を通した生の見方をいう。と書いてある。
人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか? 生きることとは何か?死ぬこととは何か?
子供の時代、死ということを考えると、必ず不安感と恐怖感にさいなまれていたように思う。
両親はいずれ死んでしまう。死んでしまえば自分は一人取り残されてしまう。その時の不安と恐怖。
次に襲ってきたのは自分が死んだらどうなるのだろうということ。死んだら、どう考えても自分が再び
この世に現われる可能性はない。では自分の魂(自分のこの感情)はどこへいくのか、何処にも
行き場がない。何千年何万年の時が経過しても、私の魂は闇の中をさまよい続けその先がない。
わずかな星が瞬く暗黒の宇宙が頭の中に広がり、その冷たい闇の中を必死でさまよい続ける。
振り払っても振り払ってもその情景は頭の中から消えてくれない。蒲団の中で恐怖に打ち震える。
一睡もできず、白々とした朝を迎えたことが何度もあった。
大きくなるに従って、子供の頃の恐怖は薄れていった。薄れたというより現実の世界の出来事で
考えることが多く。「死」についてあまり深く考えなくなったということで、先送りして行ったのであろう。
したがって、死後のことについて自分の中で納得いく答えを見つけたわけではない。
しかし両親が亡くなり、自分も次第に歳をとってくれば、またぞろ「死」ということが現実になってくる。
「次は自分の番だ」そう思うのである。
宗教は死後の世界を語ってくれる、「冥土の旅」「生れ変り」「あの世」「天国と地獄」「輪廻」、
基本的には肉体は滅びても魂は残る、ということで人々を恐怖から救ってくれるのかもしれない。
しかし宗教で言う死後の世界も誰が体験したわけではなく、信じるに足らない作り話であろう。
死んだら何も残らない。魂ということすら存在し得ない。なぜなら焼き場で幾ばくかの骨と空に舞い
上がっていく煙となって四散しまうのだから、魂の存在する場所すら残らないのではないだろうか。
だから本当は死後の世界では何にも考えられず、何も残らない「無」の世界が正解なのであろう。
しかし、それでは私は死を前にした時に、気持のよりどころとしての納まりが悪いのである。
映画「ガマの油」ではないが人は2度死ぬ。人の記憶から消えた時が本当の死、という先送りの
考え方もある程度は気持ちのよりどころとしては救いになるのかもしれない。
「死」を一人称、二人称、三人称に分けて考えると、その重さがわかるという。
三人称の死、それは遠くの他人、一般的な「死」として当たり前の現象として受け入れやすい。
二人称の死、ごく親しい人(家族や友人)の死、これを受け止めるにはある程度の時間を要す。
そして一人称としての私の死、いざこれが直近の問題になったとき、これを受け入れるためには
内面の葛藤なくして納まりはつかないでのであろう。信仰心のない私は今さら宗教には頼れない。
やはり自分なりの死生観をもつ必要はあるのだろうと思っている。
私はどちらかといえば理系の人間、世の中を論理だって考えなければ気がすまないタイプである。
「人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか?生きることとは?死ぬこととは何か?」 その解答も
科学的な根拠に基づいた納得を得ようとしがちである。今まで読んできた科学的な読み物の中
から自分としては比較的収まりの良い死生観を書いてみる。
「汝とは汝の食べた物そのものである」。私達の体はたとえどんな細部であっても、それを構成する
ものは元をたどると食物に由来する元素なのである。ここにマウスを使った実験がある。
アイソトープ(同位体)を使ってアミノ酸に標識をつける。そしてこれをマウスに3日間食べさせた。
このアイソトープ標識は分子の行方をトレース(追跡)するのに好都合な目印となる。
餌として口から入ったアミノ酸はマウスの体内で燃やされてエネルギーとなり、燃えカスは呼吸や
尿となって速やかに排泄されるだろうと予想された。しかし結果は予想を鮮やかに裏切っていた。
標識アミノ酸は瞬く間にマウスの全身に散らばり、その半分以上が脳、筋肉、消化管、肝臓、
膵臓、脾臓、血液などありとあらゆる臓器や組織を構成するタンパク質の一部となったのである。
そして三日間、マウスの体重は増えていなかった。これはいったい何を意味しているか?
マウスの身体を構成していたタンパク質は三日間のうちに、食事由来のアミノ酸に置き換えられて、
その分、身体を構成していたタンパク質が捨てられたということである。
標識のアミノ酸はちょうどインクを川に垂らしたように、「流れ」の存在とその速さを目に見えるように
してくれたのである。まったく比喩ではなく生命は行く川の流れの中にあり、私たちが食べ続けなけ
ればならない理由は、この流れを止めないためであったのだ。さらに重要なことはこの分子の
流れが、流れながらも全体として秩序を維持するため、相互関係を保っているということだった。
個体は、感覚としては外界と隔てられた実体として存在するように思える。しかしミクロレベルでは、
たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み(よどみ)」でしかないのである。
生体を構成している分子はすべて分解され、食物として摂取した分子と置き換えられている。
身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けているのである。
だから私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。
分子は環境からやってきて、一時淀みとしての私達を作りだし、次の瞬間にはまた環境へと解き
放されていく。つまり、そこにあるのは流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は
代わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということである。
私という人間は65年前、大きな流れの中に産み落とされ、流れの中に小さな「淀み」を作った。
その淀みは次第に大きくなっていく。その淀みにはあらゆるものが流れ込みまた流れ出ていった。
その淀みが作用して、新たに3つの小さな淀みが生まれていく。年月を経てやがて最初にあった
淀みは力を失い、大きな流れの中に消えていくだろう。しかしそれは淀みとしては消えるだけで、
そこを流れていた構成物質は大きな流れに戻り、また流れ続ける。そしてやがてまた別の淀みに
捕えられるのかもしれない。当然、私の魂も淀みが消えたときに霧散してしまう。そして別の淀みに
捕えられた時にそこで別の魂を作る構成要素になることがあるのかもしれない。
我々自身や我々の環境を構成している分子や原子はこの地球上から出て行くことはない。
この宇宙に地球が存在する限り、私を構成していた要素はこの地球にあり続けることになる。
子供の時見た「暗黒の宇宙」、その宇宙の漠とした空間が対象ではなく、自分を流れていった
物質は地球上に限って、散らばって行くということをイメージしても間違いではないだろう。
死の床に着いたとき、私の頭は高原のさわやかな景色を想像し、自分の体はハラハラとミクロの
単位でほどけていく、そしてその粒子が高原を吹き抜ける風に乗って四方八方に散って行く。
今はそんなことを思いながら、その時を迎えたいものだと思っている。