家から駅に行くまでに幹線道路を横断する。その道路脇にはいつも「幟(のぼり)」がはためいていた。
その幟は3本あって、それぞれに、「飲酒運転撲滅」、 「自転車も歩行者も交通ルールを守ろう」、
「老人とこどもを自動車事故からまもろう」(所沢警察署)、という交通標語が書いてある。
もう一本、手前の小さな道路に「あいさつ運動実施中」という幟、こちらは市役所の管轄であろう。
この幹線道路は西武線をまたぐ陸橋で、両側にはフェンスがあるだけで通行人はほとんど通らない。
こんな所に幟を並べて誰に読ませようとしているのだろう?見れば見るほど疑問が浮かんでくる。
スピードをあげて通り抜ける車、旗が立っているということは認識できても、これを読むことは難しい。
万が一、標語を読んだとして「そうだ、老人と子供を自動車事故から守ろう!」と改めて意識する
人がいるのだろうか?もう1本の幟、「あいさつ運動実施中」とある。たぶん市が音頭をとって学校で
やっている「あいさつ運動」というものを、市民も一緒になってやって欲しいとういことなのだろう。
しかしこんなことを幟にする必要があるのだろうか?作った職員はほんとうは何をしたいのだろうか?
そんな疑問を持って会社のある台東区に着いた。今まで気がつかなかったが、ここにも「幟」がある。
交差点に2本、両方の幟に小さな文字で「下町台東の美しい心づくり」というタイトルが書いてあり、
一本には「早ね早おき朝ごはん」、もう1本には「あいさつでつなごう心とこころ」とあった。読んで、
やはり同じ疑問が起こる。これは誰を対象に言っているのか?子供達に?それとも子供の親に?
「美しい心を作ろう」とはなんと大層な言い方である。「美しい心を作ろう」と簡単に幟で呼びかける
事柄なのだろうか? こんな難しい命題を早寝、早起き、朝ごはんで言い変えていいのだろうか?
企画した人は本当に一生懸命考えたのだろうか?街中に幟を立てる必然性があるのだろうか?
さらに歩いているとまた一本、そしてまた1本、今度は「危ない、やめよう、歩きタバコ」、「非行を
なくして明るい町づくり」と書いてある。今までほとんど目に入らなかったが、意識してみると街の
あちらこちらに幟が乱立していることがわかる。
この幟を市内一円、区内全体に立てるには、何千本単位であろうと思う。そして旗代、ポール代、
設置の費用、撤去の費用等々、やはり1回の製作費は何百万円単位にはなるように思われる。
果たして、企画製作したお役所は費用対効果を考えてやっているのか疑問に思ってしまう。
「毎年やっている事だから」「予算を計上して使わないと次からなくなるから」「市(区)として住民の
ことを思って取り組んでいることをアピールしておかないと、行政は何もしていないと思われるから」
たぶんそんなことではないだろうか。仕事をした職員はこれで仕事をした気になっているのだろう。
こういう仕事を「お役人仕事」というのだろう。こんな内容のものなら、返って無い方がよほど良い。
こんなものを街中に立てておく方が、街の美観を損ねる。だんだん腹立たしくなってきた。
亡くなった精神科医の河合隼雄がその著書「こころの処方箋」のなかで言っていた。
常識的なこと、正しいことを、いくら言い張ったところでそれは「無意味」なことだと。
ヘビースモーカーがいる。その人に「タバコは体に良くないよ。止めた方が良いよ」と言ったとする。
それに対しタバコを吸っている人は「肺癌になったらなった時のこと、ほっといてくれ!」と答える。
忠告した方は「私はあなたの体のことを思って言っているのに、なんだその言い方は」とむきになる。
「タバコは体に良くない」ことは、医学的にも証明されており、正しい意見で、今や常識である。
だからタバコを吸っている人はタバコが健康に良くないことを承知の上で吸っているのである。
そんな人が「タバコは体に良くない」と言われて、「そうか、体に悪いのか、ではタバコを止めよう」と
言うだろうか、反対にむきになってしまうのが落ちである。こんな言葉は「無意味」なことなのである。
幟に書かれていることは、いかにも常識であり何の新鮮味もない。これでは人の目に止まらず
人の意識に入らず、結局「無意味」なことになってしまうのである。
これに類した話はゴマンとある。
母親が子供に「勉強しなさい。勉強して少しでも良い学校に行けば、あなたの可能性は広がる」
それを聞いた子供が「そうだ、頑張ろう」と発奮して勉強をし始めるだろうか。
恋人に振られたて落ち込んでいる人に、「そんな人のこと、あっさり忘れちゃいなよ!」そう言われた。
「じゃあ、忘れよう」と忘れられるものではないだろう。忘れられないから落ち込んでいるのである。
言った方は「あなたのことを思って・・・」と言う。しかし本当に相手のことを思っているか疑問である。
当りさわりのないことを言って、親切なアドバイスをした気になっているだけではないのだろうか。
仕事でも無意味なアドバイスや意見は日常茶飯事。「良く考えて・・・・」「相手のことを思って・・」
「誠意をもって・・」「皆と協調して・・・」「気をつけて・・・」「最善を尽くして・・・・」「頑張るんだぞ!」
部下のことを思いやり、誰でも言えるような当たり前の忠告して、親切で有能な上司の振りをする。
そして、仕事の結果を見て、失敗であれば「それではだめなんだよ!俺が言っただろう・・・」と叱り、
良い結果が出れば「そうだろう~、俺のアドバイスが効いたよな」と手柄を自分のものにしてしまう。
社員も大人である。何が正しく何が間違っているか、自分はどう対処すべきかは分っているはず。
上司から何の新鮮味もない、ただ常識的なアドバイスを受けても、部下は納得するはずもない。
上司が毒にも薬にもならない意見を言いたてるのは、自分の存在を保っておきたいという思いであり、
自分の言い訳や手柄のための保険なのだろう。それは街中にはためく幟と同で無意味なことである。
会社で起こるさまざまな出来事を聞き、飲み屋で隣のサラリーマンの愚痴や自慢話を聞いたりすると、
世の中を巧みに泳ぎ抜くために「言葉」を、さも意味ありげに使いこなしていく連中の多いことに驚く。
本当は言葉などどうでも良い。本来は言葉を発する「人」そのものを問題にすべきだと思うのだが、
誰の言葉か分らないが『何を言われたかではなく、誰から言われたかが重要なことである』と言う。
お役所の幟で「あいさつをしよう」と言われるより、大好きな幼稚園の先生から「あいさつしようね」
とか、「朝ごはん食べてくるんだよ」と言われた方が、園児は聞く耳を持つだろう。
「タバコを止めてよ」と恋人に言えば。「じゃあ止めようか」とタバコをやめる決心をするかも知れない。
嫌な上司に何を言われても聞く耳を持たない部下も、尊敬する先輩や気の置けない仲間であれば
素直に聞くのかもしれない。人とはそんなものではないだろうか。聞く耳を持つか持たないかである。
どんな「深イイ話」を聞いても、発する人に信頼がなければ、その判定は「う~ん」であろう。
今の世の中、表面的なことが重要になっていて人の内面や人の本質、人と人との関わり方や、
信頼の築き方など、もっとも必要と思われることが、おろそかになっているように思うのである。
幟にある「下町台東の美しい心づくり、あいさつでつなごう心とこころ」こんなことでは人は動かない。
人を動かすには長い時間とたゆまぬ努力、そして何よりも深い愛情が不可欠なのではないだろうか。
以前ブログに書いた「接客」にしても、この「のぼり」にしても、本当はどうでもいいことなのだろう、
しかし一旦気になり始めると無性に気になってしまう。自分も少し愚痴っぽくなってきたのであろうか。
その幟は3本あって、それぞれに、「飲酒運転撲滅」、 「自転車も歩行者も交通ルールを守ろう」、
「老人とこどもを自動車事故からまもろう」(所沢警察署)、という交通標語が書いてある。
もう一本、手前の小さな道路に「あいさつ運動実施中」という幟、こちらは市役所の管轄であろう。
この幹線道路は西武線をまたぐ陸橋で、両側にはフェンスがあるだけで通行人はほとんど通らない。
こんな所に幟を並べて誰に読ませようとしているのだろう?見れば見るほど疑問が浮かんでくる。
スピードをあげて通り抜ける車、旗が立っているということは認識できても、これを読むことは難しい。
万が一、標語を読んだとして「そうだ、老人と子供を自動車事故から守ろう!」と改めて意識する
人がいるのだろうか?もう1本の幟、「あいさつ運動実施中」とある。たぶん市が音頭をとって学校で
やっている「あいさつ運動」というものを、市民も一緒になってやって欲しいとういことなのだろう。
しかしこんなことを幟にする必要があるのだろうか?作った職員はほんとうは何をしたいのだろうか?
そんな疑問を持って会社のある台東区に着いた。今まで気がつかなかったが、ここにも「幟」がある。
交差点に2本、両方の幟に小さな文字で「下町台東の美しい心づくり」というタイトルが書いてあり、
一本には「早ね早おき朝ごはん」、もう1本には「あいさつでつなごう心とこころ」とあった。読んで、
やはり同じ疑問が起こる。これは誰を対象に言っているのか?子供達に?それとも子供の親に?
「美しい心を作ろう」とはなんと大層な言い方である。「美しい心を作ろう」と簡単に幟で呼びかける
事柄なのだろうか? こんな難しい命題を早寝、早起き、朝ごはんで言い変えていいのだろうか?
企画した人は本当に一生懸命考えたのだろうか?街中に幟を立てる必然性があるのだろうか?
さらに歩いているとまた一本、そしてまた1本、今度は「危ない、やめよう、歩きタバコ」、「非行を
なくして明るい町づくり」と書いてある。今までほとんど目に入らなかったが、意識してみると街の
あちらこちらに幟が乱立していることがわかる。
この幟を市内一円、区内全体に立てるには、何千本単位であろうと思う。そして旗代、ポール代、
設置の費用、撤去の費用等々、やはり1回の製作費は何百万円単位にはなるように思われる。
果たして、企画製作したお役所は費用対効果を考えてやっているのか疑問に思ってしまう。
「毎年やっている事だから」「予算を計上して使わないと次からなくなるから」「市(区)として住民の
ことを思って取り組んでいることをアピールしておかないと、行政は何もしていないと思われるから」
たぶんそんなことではないだろうか。仕事をした職員はこれで仕事をした気になっているのだろう。
こういう仕事を「お役人仕事」というのだろう。こんな内容のものなら、返って無い方がよほど良い。
こんなものを街中に立てておく方が、街の美観を損ねる。だんだん腹立たしくなってきた。
亡くなった精神科医の河合隼雄がその著書「こころの処方箋」のなかで言っていた。
常識的なこと、正しいことを、いくら言い張ったところでそれは「無意味」なことだと。
ヘビースモーカーがいる。その人に「タバコは体に良くないよ。止めた方が良いよ」と言ったとする。
それに対しタバコを吸っている人は「肺癌になったらなった時のこと、ほっといてくれ!」と答える。
忠告した方は「私はあなたの体のことを思って言っているのに、なんだその言い方は」とむきになる。
「タバコは体に良くない」ことは、医学的にも証明されており、正しい意見で、今や常識である。
だからタバコを吸っている人はタバコが健康に良くないことを承知の上で吸っているのである。
そんな人が「タバコは体に良くない」と言われて、「そうか、体に悪いのか、ではタバコを止めよう」と
言うだろうか、反対にむきになってしまうのが落ちである。こんな言葉は「無意味」なことなのである。
幟に書かれていることは、いかにも常識であり何の新鮮味もない。これでは人の目に止まらず
人の意識に入らず、結局「無意味」なことになってしまうのである。
これに類した話はゴマンとある。
母親が子供に「勉強しなさい。勉強して少しでも良い学校に行けば、あなたの可能性は広がる」
それを聞いた子供が「そうだ、頑張ろう」と発奮して勉強をし始めるだろうか。
恋人に振られたて落ち込んでいる人に、「そんな人のこと、あっさり忘れちゃいなよ!」そう言われた。
「じゃあ、忘れよう」と忘れられるものではないだろう。忘れられないから落ち込んでいるのである。
言った方は「あなたのことを思って・・・」と言う。しかし本当に相手のことを思っているか疑問である。
当りさわりのないことを言って、親切なアドバイスをした気になっているだけではないのだろうか。
仕事でも無意味なアドバイスや意見は日常茶飯事。「良く考えて・・・・」「相手のことを思って・・」
「誠意をもって・・」「皆と協調して・・・」「気をつけて・・・」「最善を尽くして・・・・」「頑張るんだぞ!」
部下のことを思いやり、誰でも言えるような当たり前の忠告して、親切で有能な上司の振りをする。
そして、仕事の結果を見て、失敗であれば「それではだめなんだよ!俺が言っただろう・・・」と叱り、
良い結果が出れば「そうだろう~、俺のアドバイスが効いたよな」と手柄を自分のものにしてしまう。
社員も大人である。何が正しく何が間違っているか、自分はどう対処すべきかは分っているはず。
上司から何の新鮮味もない、ただ常識的なアドバイスを受けても、部下は納得するはずもない。
上司が毒にも薬にもならない意見を言いたてるのは、自分の存在を保っておきたいという思いであり、
自分の言い訳や手柄のための保険なのだろう。それは街中にはためく幟と同で無意味なことである。
会社で起こるさまざまな出来事を聞き、飲み屋で隣のサラリーマンの愚痴や自慢話を聞いたりすると、
世の中を巧みに泳ぎ抜くために「言葉」を、さも意味ありげに使いこなしていく連中の多いことに驚く。
本当は言葉などどうでも良い。本来は言葉を発する「人」そのものを問題にすべきだと思うのだが、
誰の言葉か分らないが『何を言われたかではなく、誰から言われたかが重要なことである』と言う。
お役所の幟で「あいさつをしよう」と言われるより、大好きな幼稚園の先生から「あいさつしようね」
とか、「朝ごはん食べてくるんだよ」と言われた方が、園児は聞く耳を持つだろう。
「タバコを止めてよ」と恋人に言えば。「じゃあ止めようか」とタバコをやめる決心をするかも知れない。
嫌な上司に何を言われても聞く耳を持たない部下も、尊敬する先輩や気の置けない仲間であれば
素直に聞くのかもしれない。人とはそんなものではないだろうか。聞く耳を持つか持たないかである。
どんな「深イイ話」を聞いても、発する人に信頼がなければ、その判定は「う~ん」であろう。
今の世の中、表面的なことが重要になっていて人の内面や人の本質、人と人との関わり方や、
信頼の築き方など、もっとも必要と思われることが、おろそかになっているように思うのである。
幟にある「下町台東の美しい心づくり、あいさつでつなごう心とこころ」こんなことでは人は動かない。
人を動かすには長い時間とたゆまぬ努力、そして何よりも深い愛情が不可欠なのではないだろうか。
以前ブログに書いた「接客」にしても、この「のぼり」にしても、本当はどうでもいいことなのだろう、
しかし一旦気になり始めると無性に気になってしまう。自分も少し愚痴っぽくなってきたのであろうか。