60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

Oさん

2009年09月04日 09時11分28秒 | Weblog
昨年6月に会社を辞めたOさん、特に約束したわけではないが月に一度は逢うことにしている。
先週も声をかけ、いつもの新宿歌舞伎町の青梅街道に面したレストランで逢うことになった。
彼は会社を辞めてすでに14ヶ月で今だに無職、親の年金と今までの蓄えとで生活している。
3ヶ月前頃から78歳になる母親が足を痛めてしまい、日常生活が不自由になってきたようだ。
トイレは自分で行けるが帰りは痛みがひどく、彼が負ぶって戻さなければいけないようである。
85歳の父親には看病は無理で、結局は彼が面倒をみなければならない状況のようである。
今は掃除、洗濯、食事の用意、家事一切は彼が仕切り専業主婦をやっているとのことである。
「俺が面倒を見てやらなければ」彼にとって就職できない最高の言い訳ができたことになる。

彼は今になって思うと、自分がこうなることは必然のようで、ある程度予測できたことだと言う。
勤めて始めてしばらくして社長の言動に対し「恥ずかしいさ」を覚えるようになったそうである。
自分のような若造が見ても常識のない人のように見え、やがて軽蔑するようになったと言う。
しかし、どうあがいても会社の経営者である。「いやなら辞める」彼の選択肢はそれしかない。
社内に同じように思う人間が3人いて、その3人が集まりオーナー批判をし溜飲を下げていた。
自分には仕事に対する「意欲」や「向上心」というものが欠落している、彼はそう自覚している。
それに加えオーナーへの反発心があるから、仕事に対して前向きになれるわけがなかった。

彼は会社の為に働くと言うよりもっぱら得意先のため、仕入れ先のためという意識が強くなる。
会社から見れば「働かない社員」+「従順ならざる社員」=「ダメ社員」ということになるのだが、
彼は得意先を人質に取る形で、そんなオーナーの意識に対して抵抗をしていた。
その得意先の売上が維持出来て、会社としても仕方なしに営業させている間はよかった。
しかしその売上も時代とともに落ちて行き、それを補完する成績がないと形勢は逆転してくる。
経費節約と言うことで、使っていた営業車も廃車にされ、営業活動は全て歩きになる。

「この売上の体たらく、どうするんだよ!」「お前は営業だろう、新規開拓しなくてどうするんだ」
毎週の営業会議でじりじりと責められる。それをじっと耐えてやり過ごすしかなくなって行った。
「俺には新規開拓なぞ出来るスキルも意欲もない」そう自分で認識しているから逃げ続ける。
自分で自分の置かれている状況は充分に解っていた。既存の売上も落ち続け、新規開拓も
できず、かと言ってオーナーに頭を下げることも、相談することもできず苦悩の日が続く。
自分の心情、自分の性格、今までの経緯、全てのことから「辞めざるを得ない」そう覚悟した。

10年以上も前から「いずれこの会社では勤めることはできなくなり、辞めることになるだろう」
それは自分の能力から考え、避けることにできない一つの大きな流れのように思っていた。
やがて抗戦3人組の中の最年長の人が定年で辞めてしまう。もう一人の仲間があと2年で
定年になる。その時に自分も一緒に辞表を出して辞めていく。それが彼の予定であった。
しかし、もう一人の仲間が辞める前に耐えられなくなり先に腰を割ることになってしまった。

以前から考えていた「辞める時は平然と辞める」という心構えが、退職日が近ずいてくると、
自分でもビックリするほど平常心を失ってしまう。そしてあたふたしたまま退職日を迎えた。
会社への未練、絶望、疎外感、孤立感、焦燥感、ありとあらゆる感情が重なりパニックになる。
そんな退職時の混乱した気持ちも、時間が経過するに従って収まってきた。
当初「秋口から就活をしよう」と思ってはいたが、その時になったら心が萎えて全く動けない。
「こんな不況で50歳を超えた俺が就職できるわけがない。失業保険が切れてから考えよう」と
自分自身に言い訳をしながら先送りしていく。しかし3月に失業保険が切れてしまってからは、
今度は「ゴールデンウイークが終わってからにしよう」となかなかスイッチが入らないのである。
1年が過ぎても彼は自分の無気力さから脱却することができず、再就職は遠のいて行く。
そして母に看護が必要な状況になる。それも彼には予定されていた流れのように思われる。

例えれば「社会」という大きな川の流れがあるとする。ひねくれ者の彼は川の真ん中ではなく、
川の渕に暮らすことことを好んでいた。本流を嫌い、しだいに岸辺に近づき危険な状態になる。
ある時、逃げようとして川の渕の「淀み」に迷い込んでしまう。
淀みには流れもなく、競争もなく、何時までもじっとしていても暮らしていける環境であった。
彼は「淀みから出なくてはいけない」と思いつつもそのぬるま湯からは出ようとはしなかった。
やがてその淀みは川から分離し、小さな水たまりになる。その水たまりが「家族」であろう。
その水溜まりの中で彼の役割ができた。「この環境で暮らそう」彼はそう思うようになった。
やがて時が過ぎ、水たまりは干上がって行く。それは親の死による年金支給の終わりである。
彼の年金支給まではあと13年ある。85歳の父親が98歳まで生きているとは考えずらい。
いずれ水たまりは干上がることは覚悟しなければならない。

こんな風にOさんのことを書くと、「それは自業自得だよ!」「なんと情けない男なんだ!」
「逃げてばかりではダメなんだ」「つまらない人生だな」そんな声が聞こえてきそうな気がする。
果たしてそうであろうか?私はそうは思わない。彼は今、水溜りで心穏やかに暮らしている。
毎週月曜に配られる生協からの商品を冷蔵庫に詰め込み、賞味期限内に使い切るように
毎日の献立を工夫する。次週の生協の注文をし、時に近所のスーパーに買い出しに行く。
3度3度両親の食事を作り、母親を病院に連れて行き、掃除洗濯をし近所付き合いもする。
毎日一度コーヒーショップで自分の時間を持ち、土日は競馬の100円馬券を買って楽しむ。
彼はそのことに、ささやかな喜びを感じているのだろう。話す口調は穏やかでにこやかである。
以前会社勤めているとき接していた彼は2回転半も回っているようにひねくれた性格だった。
それが今は逢う度ににこやかになり、穏やかになり、素直になって行くように思うのである。

Oさんは自分が言っているように、もともとのポテンシャルのエネルギー量は少なように思う。
それは生まれ持ってのことなのか、教育のせいか、その後の辛い経験や挫折のせいなのか
この50数年の中で、彼の人格は形成されてきたはずである。それを今さら良いの悪いとのと
言っても詮無いことである。彼の人生の大きな流れは変えようがないように思うからである。
「人生とはこうあるべきである」「男はこうあらねばならない!」「仕事とは、家庭とは」
世の中、型にはめた考え方、マニュアル化される仕事の進め方、そんなものが横行する。
人は100人いれば100通りの性格があり、考え方があり、生き方があり、幸せがある。
今の時代、自由に考え、自由に生きていい時代なのであろう。その代り当然責任が伴う。

水溜まりは次第に小さくなり、やがて干からびてしまう。ある時Oさんが自宅で死んでいるのが
何日も発見されずにニュースになるかもしれない。それもまた自己責任であろう。
自分に合わない仕事を無理やりやって苦しんでいるOさんを見るより、その方がOさんらしいと
私は思ってしまうのである。こんなことを書いていると自分が平衡感覚を失って行くように思う。
もうこのへんでOさんについて書くことは止めにしよう。