60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

中学生時代

2009年09月18日 08時34分19秒 | Weblog
会社帰り、いつもは鴬谷駅の南口から山手線に乗る。しかし時々は言問通りをさらに
歩き、駅の北口に回ることがある。言問通りの西を通って駅の北口まで、その一帯は
時代の変化から取り残されたような戦後間もない昭和の雰囲気を残している。
表通りに面した閑散としたビジネスホテル、そこから一歩奥に入るとラブホテルが細い
路地を挟んで密集し、一旦入り込んでしまうと出てこれなくなるような迷路のようである。
間口が狭く奥に細長い商店、薄暗い店内は寒々しく、時代遅れの商品が並んでいる。
けばけばしい下着が並ぶ衣料品店、無秩序にせり出したネオンサインや道を塞ぐ立看板、
細長いマンションの一階には出入りに差し支えるほど自転車が詰め込まれている。
このあたりの雑然とした雰囲気は昭和30年代の故郷下関の遊興地区を思い出す。

故郷下関は漁港の街、駅の傍には西日本一の漁港があり、いつも魚の臭いがしていた。
漁港の傍には遠洋漁業の船員相手の遊興地区があり、夜ともなるとネオンがまたたき、
派手な化粧をした女たちが店の前にたむろして客引きをしている。
私の通っていた中学校はまだ赤線が残るこの遊興街の中を通るのが一番の近道だった。
その界隈だけが怪しげな雰囲気が漂い、子供心に近づいてはいけないように思っていた。
時に客引きの女は「兄さんは良い男だね、遊んで行かない?」と中学生の私をからかう。
気恥かしさから足早に通り過ぎると、後ろで女達の笑い声が聞こえた。
あれから50年、鴬谷のその一帯を通るときに、ふとその当時のことを思い出すのである。

私の中学時代は昭和30年代前半、戦後の復興がやっと緒に就いたばかりの頃である。
あらゆるものが不足し、ただただ人が多く、ざわざわと落ち着きのない世の中であった。
しかし、あくまでもそれは今との比較であって、終戦生まれの私には何と比較しようもなく
それが当たり前の世の中だと受け入れ、何の不満もなく暮らしていたように思う。

私は校区の関係で小学校の大半の友達とは別の中学校に通わなければならなかった。
その中学は古い木造校舎、60人編成で1学年が15クラスもあるマンモス中学である。
知らない生徒でぎっしり詰め込まれた教室、教科別に先生が変わる流れ作業の授業、
小学生からの変化に馴染むことができないままに、友達もできずに孤立していった。
昼休みも一人で過ごすことが多く、内向的な性格がもろに出ていった時期でもある。
家でも部屋に閉じこもりがちで、勉強にも身が入らず、成績も徐々に落ちていった。

高校受験で3つ上の兄は市内の一番校へ進学した。しかし成績の落ちた私は安全を
取った方が良いと担任の勧めもあって、郊外にある県立の二番校を受験することになる。
その高校へは同じ中学校の受験生中のトップの成績でもあったこともあり、高校受験は
この一校だけしか受けなかった。そして試験はまずまずの手ごたえはあったと思っていた。
合格発表の日、通学時間の確認もあって高校まで一人で発表を見に行くことにする。

高校は市街地のはずれにあり、国鉄の下関駅前から路面電車に乗って30分かかる。
一つ手前の停留所で降り、学校周辺をを大きく一周して、付近の様子を見て回った。
校門をくぐり、職員室の前を通って合格発表の貼りだしてある中庭の掲示板に向かう。
20~30人の生徒が掲示板の前に集まっている。同じ中学校の生徒の笑顔が見える。
掲示版の前にたむろする人の間を縫って、割り込むように前に出て自分の名を探す。
あいうえお順に並んだ合格者の名前。同じ姓だが名が違う名前が一人あるだけである。

「おかしいな」と思い、再び丹念に見て行く。「ない」始めて自分の置かれた現実に気づく。
「ない」「ない」不安と恐れが、自分の気持ちの中をぐるぐるとかけ回っているように感じる。
「ひょっとして試験の答案に自分の名前は書き忘れたのかもしれない」。心を落ち着かせ
試験の当日の状況を思いだそうとする、しかし混乱した頭では何も思い浮かばない。
途方に暮れている自分を遠くのもう一人の自分が落ち着くように促している。しばらくして
「自分はこの場に留まっていてはいけないんだ」と気づく。恥ずかしさが込みあげ、人だかりを
抜けて校門の方へ歩き出した。その時、学友の憐みの視線を背中に感じたように思った。

そのあと、電車に乗って帰ったのか、歩いて帰ったのか、その後の記憶はぷつりと消える。
思い出せるのは家の玄関を開けた時、たぶん自分の顔面は血の気が失せていたのだろう、
玄関に迎えに出てきた母は一瞬で結果を読み取って、その顔は見る間に曇っていった。
母は学校の担任へ連絡を取り、急ぎ中学校へ向う。何日かして学校から連絡があった。
「試験の成績は悪くはなかったが、遅刻が多く内申点が悪いため保留扱いになっていた」と、
しばらくして高等学校から「補欠入学」の通知が来た。
本当に内申点が悪く、入学は不適と判定されていたのを、中学校側が押し込んだのか,
それとも高校のミスで、それを内申点云々ということにし補欠入学させることで収めたのか、
今考えても、生徒にとって大切な入試の合否に、「保留」の処置などありえないと思う。
どちらにしても親も自分にも甘さがあったと反省はある。しかし当時は入試に落ちるとは
夢にも思わなかったのも確かである。
「これから1年間、学校にも行けず、家に居るのか?」「中学を終えて就職するのか?」
「自分はこれからどうなるのだろう?」さまざまな不安が自分を押しつぶして行った。
その時の不安と恐怖、そして絶望感は今でも忘れることができないほど強烈であった。

入学してからは成績順に1~4クラスに編成される。私は成績の良い1組に編成になった。
「補欠入学の自分がなぜ1組なのか?」学校に対する不信はつのっても、心は癒えない。
「あいつ落ちたのに、なぜ学校に来ているんだ」、誰も表立っては私には言わないものの、
そんな陰口を感じてしまうのである。結局「補欠入学」という烙印は卒業まで付いて回った。
それ以来、私は自分の中の喜怒哀楽を隠すようになったように思う、この衝撃を忘れ、
この屈辱を耐えていくには心を閉ざしているよりほかに方法がなかったのであろう。
高校の同じクラスの仲間とも必要最低限のつきあいだけで、深く接することはなかった。

その後友達ができ、打ち解けるようになったのは浪人を経てから大学に入って以降である。
14歳の私にとってはこの衝撃はあまりにも重く、その回復に4年の時間を要したことになる。
人生の中で幾度も挫折を味わってきたが、この時が最初の大きな挫折だったように思う。
振り返ってみたとき、中学高校の6年間は私にとって長いトンネルのような時期であった。
中学・高校の先生のこと生徒のこと、楽しい思い出でなぞ何一つ思い出すことはできないが、
この高校入試に落ちた時のことだけは今でも鮮明に覚えている。

鴬谷のうらぶれた商店街を通る時、客引きの女に冷やかされた昔のことを思い出し、
暗く憂鬱な日々のことを思い出し、そして心に付いた古傷のことを思い出すのである。