私は喫茶店に行くと、ほとんどの場合「アメリカン」と頼む。濃い味は苦手だからである。
先日スターバックスに行って「アメリカン」と言ったら「アメリカーノですね」と訂正された。
スタバにも何度も行くが、メニューを見てもほとんどの商品がどんな味か想像がつかない。
味に対して興味が薄いから、エスプレッソとは何かもあまりよく理解はしていないのである。
友人には「何を飲ませても一緒だね」「味覚音痴じゃないの?」と言ってからかわれる。
確かに私にとって「味」ということについては敏感ではないし、こだわりも薄いように思う。
小さい頃は朝食はパン食であった。飲み物は最初の頃は脱脂粉乳、そして牛乳、紅茶、
インスタント珈琲と変遷していくが、しかし共通することは砂糖3杯が定量であったことだ。
学生になり喫茶店に行くようになってからは角砂糖2個(グラニュー糖2杯)が定量になる。
今はダイエットの為、会社の珈琲は3gのスティックシュガー1本、喫茶店は無糖にしている。
私が育った頃は食糧難時代、「これはイヤだ、これは嫌い」と言えば「何を贅沢な!」と
叱られたものである。「何でも出された物を食べる」それ以外の選択肢はなかったのである。
遊び盛り、育ち盛りの子供にとっては糖質は不可欠だったのだろう、甘い物に餓えていた。
今考えれば砂糖水のような紅茶や珈琲を飲んでいたことになるが、それは紅茶の味、
珈琲の味を楽しむより、甘さが美味しさのバロメーターのようになっていたからかもしれない。
会社に入り食品の仕入れを担当するようになってから試食という事を経験するようになる。
商品を「旨い、不味いと、自分の味覚で選んではいけない」これが仕事の鉄則であった。
多くの消費者の味覚は千差万別である。商品を選ぶ本人の味覚は一モニターでしかない。
したがって味覚はあくまでも客観的に評価し大多数の好みに合わせて選ぶ。そう教わった。
私も商品を選ぶ時は味の酸味、辛味、甘味、塩味、渋味等に加え歯ごたえ、腰、色に
価格を加味した総合評価で商品選定するようになった。そこに自分の嗜好は入らない。
そんなことを長年やっていたから、自分の「好み」というものが薄くなったのではないかと思う。
自分の「好し」とするものは大衆の味、自分のオリジナルな嗜好というものは育たなかった。
私が今のところ、一番自分に合うと思う珈琲は「EXCELSIOR CAFFE」の珈琲である。
特に何が美味しいというわけではないのだが、バランスのとれた味で飲みやすいのである。
「EXCELSIOR CAFFE」はドトールの別ブランドである。それだけに時間を掛けて試飲を
繰り返して作り上げた豆の選定と配合に焙煎なのだろう。そういう風に考えると、やはり
私の味覚は個性的な味覚ではなく、大衆的な味覚を「好し」とするのかもしれない。
最近よく行く喫茶店の女店主の人に、珈琲についてのことを教わることが多い。 彼女曰く
珈琲の味は豆によっても違うが基本的には焙煎によって異なる。浅く焙煎すれば酸味が強く
深く焙煎すれば苦味が強くなる。珈琲の味は基本的に酸味と苦味のバランスによって決まる。
人それぞれの好みで「美味しさ」の感じ方は違うし「好み」は人によってまちまちだが、しかし
結局珈琲の美味しさは微かな苦味とほのかな酸味、そして飲んだ後に残る甘味ですね。と。
彼女によれば味覚の発達には「味の記憶」が不可欠だという。味の記憶が味覚を育てる。
彼女に「今日の珈琲は何処の豆で、こんな風に入れました」そう言われて出された珈琲も、
昨日飲んだ珈琲の味も、私にはあまりにも微妙過ぎて、その違いは全く感じることができない。
私は「味の記憶」ということが不得意なのだろうし、味に対して興味が少ないのであろうか。
そしてまた知覚した「味」を「これが好き」といいうように、好き嫌いに結びつけないようである。
これが味覚音痴と言われるゆえんなのであろう。
考えてみれば、「味」の知覚と同じようなことは私のいろんなことに現われているように思う。
例えば美術鑑賞、絵を見て「好き」「嫌い」の感情ではなく、知識として分析を試みようとする。
音楽鑑賞も同じようなもので、旋律として馴染めるか否か、心地良いかどうかは知覚しても
その曲が、この演奏が自分にとって好きか嫌いかという風に感じたことはなかったように思う。
人間関係も同じなのであろう。人それぞれの性格や特徴は丹念に観察しながら分析していく。
しかしその分析に基づいて人を「好き」「嫌い」という風には分類しないように思うのである。
こう考えると私の性格は感覚優先ではなく、分析とバランスとを重要視するなのかもしれない。
味にしても人の性格にしても、それを細かく分解してみて、組立のバランスを考えるのだろう。
一つの標準的なモデルを設定し、そこからの距離を測ることで、そのものを理解しようとする。
だから自分の好き嫌いの感覚は物事を理解する上で何の判定材料にならないのである。
どんなに辛い味であっても、自分に食べられるかどうかであって、好きか嫌いかは関係ない。
人もそうで、どんなに異端な性格の人でも自分が受け入れ入れられるか否かが問題である。
だから人の好き嫌いには敏感でなく、興味の対象になりうるかどうかが問題になるようだ。
こんな理屈っぽいブログを書いていること自身が「感覚派」ではないことの証明であろう。
振り返ってみると、今まで私は「好き」「嫌い」、「旨い」「不味い」、「きれい」「かわいい」など
感情を表現する言葉をほとんど使ったことがないように思う。しかしそのことは「男性」一般の
特徴だろうと思っていた。しかし最近の若い男性を見ると、旨いまずいとうるさいことを言う。
「男は黙って、黙々と食べる」という父に教えられた男性像はもう何処にも残っていない。
結局私の味覚音痴は「三つ子の魂・・」ではないが、子供の頃の3杯の砂糖と、何にでも
「味の素」を振りかけて食べた食習慣に原因があるように思うのだが、
先日スターバックスに行って「アメリカン」と言ったら「アメリカーノですね」と訂正された。
スタバにも何度も行くが、メニューを見てもほとんどの商品がどんな味か想像がつかない。
味に対して興味が薄いから、エスプレッソとは何かもあまりよく理解はしていないのである。
友人には「何を飲ませても一緒だね」「味覚音痴じゃないの?」と言ってからかわれる。
確かに私にとって「味」ということについては敏感ではないし、こだわりも薄いように思う。
小さい頃は朝食はパン食であった。飲み物は最初の頃は脱脂粉乳、そして牛乳、紅茶、
インスタント珈琲と変遷していくが、しかし共通することは砂糖3杯が定量であったことだ。
学生になり喫茶店に行くようになってからは角砂糖2個(グラニュー糖2杯)が定量になる。
今はダイエットの為、会社の珈琲は3gのスティックシュガー1本、喫茶店は無糖にしている。
私が育った頃は食糧難時代、「これはイヤだ、これは嫌い」と言えば「何を贅沢な!」と
叱られたものである。「何でも出された物を食べる」それ以外の選択肢はなかったのである。
遊び盛り、育ち盛りの子供にとっては糖質は不可欠だったのだろう、甘い物に餓えていた。
今考えれば砂糖水のような紅茶や珈琲を飲んでいたことになるが、それは紅茶の味、
珈琲の味を楽しむより、甘さが美味しさのバロメーターのようになっていたからかもしれない。
会社に入り食品の仕入れを担当するようになってから試食という事を経験するようになる。
商品を「旨い、不味いと、自分の味覚で選んではいけない」これが仕事の鉄則であった。
多くの消費者の味覚は千差万別である。商品を選ぶ本人の味覚は一モニターでしかない。
したがって味覚はあくまでも客観的に評価し大多数の好みに合わせて選ぶ。そう教わった。
私も商品を選ぶ時は味の酸味、辛味、甘味、塩味、渋味等に加え歯ごたえ、腰、色に
価格を加味した総合評価で商品選定するようになった。そこに自分の嗜好は入らない。
そんなことを長年やっていたから、自分の「好み」というものが薄くなったのではないかと思う。
自分の「好し」とするものは大衆の味、自分のオリジナルな嗜好というものは育たなかった。
私が今のところ、一番自分に合うと思う珈琲は「EXCELSIOR CAFFE」の珈琲である。
特に何が美味しいというわけではないのだが、バランスのとれた味で飲みやすいのである。
「EXCELSIOR CAFFE」はドトールの別ブランドである。それだけに時間を掛けて試飲を
繰り返して作り上げた豆の選定と配合に焙煎なのだろう。そういう風に考えると、やはり
私の味覚は個性的な味覚ではなく、大衆的な味覚を「好し」とするのかもしれない。
最近よく行く喫茶店の女店主の人に、珈琲についてのことを教わることが多い。 彼女曰く
珈琲の味は豆によっても違うが基本的には焙煎によって異なる。浅く焙煎すれば酸味が強く
深く焙煎すれば苦味が強くなる。珈琲の味は基本的に酸味と苦味のバランスによって決まる。
人それぞれの好みで「美味しさ」の感じ方は違うし「好み」は人によってまちまちだが、しかし
結局珈琲の美味しさは微かな苦味とほのかな酸味、そして飲んだ後に残る甘味ですね。と。
彼女によれば味覚の発達には「味の記憶」が不可欠だという。味の記憶が味覚を育てる。
彼女に「今日の珈琲は何処の豆で、こんな風に入れました」そう言われて出された珈琲も、
昨日飲んだ珈琲の味も、私にはあまりにも微妙過ぎて、その違いは全く感じることができない。
私は「味の記憶」ということが不得意なのだろうし、味に対して興味が少ないのであろうか。
そしてまた知覚した「味」を「これが好き」といいうように、好き嫌いに結びつけないようである。
これが味覚音痴と言われるゆえんなのであろう。
考えてみれば、「味」の知覚と同じようなことは私のいろんなことに現われているように思う。
例えば美術鑑賞、絵を見て「好き」「嫌い」の感情ではなく、知識として分析を試みようとする。
音楽鑑賞も同じようなもので、旋律として馴染めるか否か、心地良いかどうかは知覚しても
その曲が、この演奏が自分にとって好きか嫌いかという風に感じたことはなかったように思う。
人間関係も同じなのであろう。人それぞれの性格や特徴は丹念に観察しながら分析していく。
しかしその分析に基づいて人を「好き」「嫌い」という風には分類しないように思うのである。
こう考えると私の性格は感覚優先ではなく、分析とバランスとを重要視するなのかもしれない。
味にしても人の性格にしても、それを細かく分解してみて、組立のバランスを考えるのだろう。
一つの標準的なモデルを設定し、そこからの距離を測ることで、そのものを理解しようとする。
だから自分の好き嫌いの感覚は物事を理解する上で何の判定材料にならないのである。
どんなに辛い味であっても、自分に食べられるかどうかであって、好きか嫌いかは関係ない。
人もそうで、どんなに異端な性格の人でも自分が受け入れ入れられるか否かが問題である。
だから人の好き嫌いには敏感でなく、興味の対象になりうるかどうかが問題になるようだ。
こんな理屈っぽいブログを書いていること自身が「感覚派」ではないことの証明であろう。
振り返ってみると、今まで私は「好き」「嫌い」、「旨い」「不味い」、「きれい」「かわいい」など
感情を表現する言葉をほとんど使ったことがないように思う。しかしそのことは「男性」一般の
特徴だろうと思っていた。しかし最近の若い男性を見ると、旨いまずいとうるさいことを言う。
「男は黙って、黙々と食べる」という父に教えられた男性像はもう何処にも残っていない。
結局私の味覚音痴は「三つ子の魂・・」ではないが、子供の頃の3杯の砂糖と、何にでも
「味の素」を振りかけて食べた食習慣に原因があるように思うのだが、