60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

記憶

2009年10月30日 09時05分16秒 | Weblog
先週、離職して完全主婦業をやっているOさんと飲んでいた時の話である。   彼曰く、
毎日同じような家事の繰り返しだと、日々の流れの中に句読点がなくなってしまうらしい。
だんだんイライラしてきて、年老いた親に対して、怒ってみたり、辛く当たってみたりするという。
毎月1回私と飲むことは家族には公認で、家事をしなくてよい絶好の理由になるらしい。
何もそこまで家事に律儀さを持つ必要もないように思うのだが、それが主婦業なのだそうだ。
今、月1回の飲み会がストレスの解消、憂さ晴らしとして無くてはならない物になったと言う。

そしてこの句読点が、毎日変わらない時間の流れの中の記憶の付箋にもなるようである。
「前回会った日の翌週の何曜日に・・・・」というように思いだす記憶の目印になるらしい。
毎日気晴らしで行くコーヒーショップ、毎週末の馬券場通い、毎月の私との飲み会、
これがないと記憶に付箋が付かず、自分が今どこにいるのかも見失ってしまいそうだと言う。
そんな話の流れから、時間の経過とその時々に残っている記憶、という風に話は移って行く。
そして人生最初の記憶は何歳で、どんな記憶が残っているのだろうかという話になった。

幼い記憶はあいまいで、時間の特定ができるものは少ないが、私も思い出す記憶がある。

3歳
後々、親に聞いて整合性を持ってくるのだが、多分これが一番古いだろうと思うものがある。
私には3つ下に双子の弟がいた。上が康男、下が俊男、しかし康男の方は生まれて間もなく
亡くなったそうだ。その当りの記憶はないが、たぶん家内でささやかな葬儀を行ったのだろう。
近所の人や親戚だろう大勢の人が集まっていて、子供ながらにはしゃいでいたようである。
持ち込まれた小さな棺(子ども用)の中に、ふざけ半分で自分が中に入って寝そべって見た。
私の記憶は、狭苦しい板の棺、それの周りを取り囲んで大人達の笑った目線が私を見下ろし、
何か喋っていたのを覚えている。「子供は無邪気だねぇ」多分そんな会話であったであろう。
弟が3つ下だから、その時私は3歳だったはずだである。

4歳
戦後まもなくで、幼稚園の数は少なく、希望者全員が行ける状況にはなかったようである。
希望者はくじ引きで入園を決めたいた。私はおばあちゃんに手を引かれ、幼稚園に行った。
運動場にテーブルが置かれ、その上に真四角なボックスがあり、中から三角くじを引いた。
それを先生だろう人に渡すと、くじの周りを切り取って私に手渡してくれる。
それを開けてみると、そこに×のマーク。「残念だったわね」それで私は入園はできなかった。
近所の友達が幼稚園に通うのに、私は5歳の1年間いつも一人で過ごしていたように思う。

5歳
7月30日は父の誕生日である。当日の朝、父に何かプレゼントして驚かせようと思いついた。
誕生日には子供達はプレゼントは貰えたものの、子から親への習慣は無かったはずである。
色々考えた末、父の好きなタバコを贈ることにする。しかし自分の小遣いではお金が足りず
買うことができない。母に「買いたいものがあるから、お金をちょうだい」と何度も頼み込む。
母は「何を買うの?」と聞き、「何を買うのか言わなければダメ」と取り合ってくれなかった。
家族をビックリさせたいのが目的の私はしゃべることは出来ず、とうとう泣き出してしまった。 
しょんぼりと座った夕食の席で母が「ひろしがお金をほしがって、何を買うのか言わないのよ」
と父に言い付ける。父は「ひろしは何がほしかったんだ?」と尋ねる。答えないわけに行かず、
「今日はお父さんの誕生日だからタバコを買って上げようと思ったんだ」と白状してしまった。
「そんなことなら、そうと言えば良いのに」と母親は言ってのける。「そんなことではないんだが」
これは、幼稚園に行けず家でぶらぶら過ごしていた時のこと、たぶん5歳であろう。

6歳
私が6歳の時は1950年、昭和25年である。「あと50年経てば2000年という年になる」
ある日、ふとそんなことが自分を捕えた。2000年というはるか先、思いも及ばない未来が、
50という自分の数えられる数字を足すことで、現実のこととになるように思えたのであろう。
その2000年の時、自分は56歳になっている。多分働いていて、この世に生きているだろう。
その時父は86歳、母は79歳になっているはず、「そんな歳まで2人は生きているだろうか?」
そう思うと急に不安が襲ってきた。「一人ぼっちになってしまう」ただただそう考えてしまった。
幼い頭ではこれから先がイメージ出来ないから、今の状況の単純な延長を考えたのであろう。
そんなことで一人で落ち込んでいたのは、お正月のぽかぽかと日が当たる昼下がり縁側で、
一人ぼんやりと座っていた時。そばに三毛猫の「ミーヤ」が寝そべっていた。

7歳
小学2年になると、漢字が多くなる。ある日テストがあり一つの漢字が分からず困っていると、
隣の女の子が自分の答案を私の方にずらし見せてくれた。私は横目で見ながらそれを写す。
後日先生が採点し答案を返す時、隣の子に「人のを見てはだめだよ」と強い口調で注意する。
隣同士で同じ漢字を同じように間違っていた。私の方が彼女よりは成績は良い方だった。
先生の先入観で、彼女が見たことになってしまっている。さあどうしたらいいだろうと戸惑う。
「私が見ました」と言えないまま黙っていると、「すいません」と隣の女の子が先生に謝った。
後ろめたさ、自分の卑怯さ、意気地なさ、子供ながら嫌な自分自身を見たのはこの時だった。

8歳
校内で「作曲コンクール」というものがあった。3年と4年、5年と6年それぞれのグループに
音楽の先生から「詩」が配られる。生徒は各々に笛やハーモニカを持ってきて、曲を考え、
楽譜に書いていく。私はその詩を2~3回黙読すると、すぐに旋律が浮かんできた。
ハーモニカでその曲を吹きながら、一つ一つの音階を探して楽譜に書いていった。
後日優秀作品の発表がある。私の作品は3、4年での優秀作品の何人かに入っていた。
全校朝礼で、先生の伴奏で歌った記憶がある。その時の晴れがましさ今でも忘れられない。
今もその歌詞と曲とは覚えている。「ほろほろほろと、ハトが鳴く、皆な元気ハトの声、・・」

記憶とはどのようなものであろう。
つい最近の事も、何十年も昔の事も、どちらに優先順位があるわけでもないように思える。
多分記憶のファイルは年代順に積み上げられているのではなく、小さな引出しに「何か」と
関連付けられて保存されているのだろう。その「何か」とは、その時の感情ではないだろうか。
怖かったこと、悲しかったこと、嬉しかったこと、心の動揺が大きいほど、記憶は鮮明である。
人がより良く生きていくために、過去の経験を活かすために、その記憶が役立つのであろう。
今の私に記憶(経験)という物が残っていなければ、ただのぼけ老人である。曲りなりにも
まだ現役で働けているのも3歳から記憶されている心の動揺の数々が今に生きていると思う。
そう思うと「若い時は苦労は買ってでもしろ」という意味がよくわかる気がする。

今の世の中、ストレスフルで生きずらい世の中のように思える。しかし今の若者を見ていると、
なるべく平穏にと、いろんなことに一線を構えて、深入りはしないというスタンスが多いと思う。
それでは記憶に残らない。挫折を知らない人は使えない。挫折を知る人は人に優しくなれる。
そんな言葉もある。やはり、つまづきながらでも前向きに歩いた方がいいように思うのだが、