毎年お正月は女房の実家に行く。そして2日か3日の日に実家の家族と近所にある諏訪神社の分社に初詣に行くことが恒例になっている。もう何十回この神社に初詣に行ったことだろう。3人の子供それぞれの高校、大学、就職の合格祈願は全てこの神社であった。現在3人の子供はそれぞれ就職し、元気に働いている。長男と長女は今年結婚する運びとなった。このことも、考えようによっては諏訪神社の御加護があったればこそとと言えるのかもしれない。しかし私自身は「神」の存在など信じてはいないし、反対に宗教があるがゆえに世界で紛争が絶えないのだと思っている。そうは言っても、お賽銭をあげ、手を合わせれば家内安全と周りの人達の無病息災を祈ってしまうものである。これが日本人的な宗教感なのであろうか。今年はこの初詣に珍事があった。それはおみくじを引いたら、5人全員が大吉だったのである。普通であればこんなことはあり得ない。昨年の大震災で元気のなくなった人々の気持ちに、少しでも明るい希望をという神社側の配慮なのであろうが、なんとなく割り切れない感じもするものである。
3.11の衝撃以来、我々の気持ちの奥底に重いおもりのようなものが止まっているように思う。それはただ単に東北の災害に止まらず、原発の問題だったり、国の大借金の問題だったり、年金の破綻だったり、若者の就職難だったり、北朝鮮の問題だったり、政治不信だったりと、出口の見えない問題がうずたかく積まれているように思うからである。それが人々の気を萎えさせ、何となく陰鬱な気分にさせているように思っている。年末年始のTV番組を見ていても、震災絡みの、やれ「絆」だ、「元気を出そう」だ、と言う、とうり一片の抽象的なテーマで終始していて、ヘキヘキした気分になってしまった。年が明け、もうすぐ震災から1年になる。総花的な話は止めて、もう具体的なテーマにそれぞれの分野で取り組んで行く時期のように思うのである。個人についても周りの気分に流されず、自分のテーマに対して具体的な行動をしていく年にしたいものである。
さて、今年はどんな1年になるだろう、どんな1年にしたら良いだろうと考えてみる。仕事の方は若干でも給料が取れる今の会社を、半年でも1年でも継続させるように頑張って見ようと思う。しかし軸足はやはりリタイヤ後に置き、自分の行動範囲を広げることをテーマにしたい。一つは昨年から始めた水彩画教室を続けて、秋にはスケッチブックを持って外で描いて見たいと思っている。もう一つは何かボランティア的な仕事の目星をつけけ、出来れば仕事を辞めた時から、そちらに時間を使えればと思っている。三つ目は今住んでいる近場で私的なサークルを作るか、あるいはどこかのサークルに参加することを考えてみたい。これが私の漠然とした方向である。「健康で活き活きと暮らしている」、これが子供たちにとっても一番安心な親の生き方だと思うからである。
全員が大吉
3.11の衝撃以来、我々の気持ちの奥底に重いおもりのようなものが止まっているように思う。それはただ単に東北の災害に止まらず、原発の問題だったり、国の大借金の問題だったり、年金の破綻だったり、若者の就職難だったり、北朝鮮の問題だったり、政治不信だったりと、出口の見えない問題がうずたかく積まれているように思うからである。それが人々の気を萎えさせ、何となく陰鬱な気分にさせているように思っている。年末年始のTV番組を見ていても、震災絡みの、やれ「絆」だ、「元気を出そう」だ、と言う、とうり一片の抽象的なテーマで終始していて、ヘキヘキした気分になってしまった。年が明け、もうすぐ震災から1年になる。総花的な話は止めて、もう具体的なテーマにそれぞれの分野で取り組んで行く時期のように思うのである。個人についても周りの気分に流されず、自分のテーマに対して具体的な行動をしていく年にしたいものである。
さて、今年はどんな1年になるだろう、どんな1年にしたら良いだろうと考えてみる。仕事の方は若干でも給料が取れる今の会社を、半年でも1年でも継続させるように頑張って見ようと思う。しかし軸足はやはりリタイヤ後に置き、自分の行動範囲を広げることをテーマにしたい。一つは昨年から始めた水彩画教室を続けて、秋にはスケッチブックを持って外で描いて見たいと思っている。もう一つは何かボランティア的な仕事の目星をつけけ、出来れば仕事を辞めた時から、そちらに時間を使えればと思っている。三つ目は今住んでいる近場で私的なサークルを作るか、あるいはどこかのサークルに参加することを考えてみたい。これが私の漠然とした方向である。「健康で活き活きと暮らしている」、これが子供たちにとっても一番安心な親の生き方だと思うからである。
全員が大吉