日曜、以前取引関係でお付き合いがあった人の葬儀に参列した。個人的に親しいという間柄でもなかっが、その人が会社を退職されて個人商売を始められてからは、よく情報交換などで話をするようになった。しかしその商売も手仕舞いされたようで、ここ5~6年はお会いする機会もなかった。そんな関係から先週末に訃報を貰ったとき、私の中で参列するか否に迷いがあった。しかし昨今は周りで直接係わり合いがあった人達の訃報が多く入る。「今までの人間関係も逝去によって否応なしに途絶えていく年齢。だからこれからは一つ一つにケジメをつけていく時なのだろう」、そう思って葬儀に出かけることにした。
故人は享年81歳、1年前に肺がんになりその後入退院を繰り返して、最終的には呼吸不全で亡くなられたようである。受付を済ませ式場に入る。仕事を離れて長いからか会社関係の人は少なく、大半が親戚筋や近隣の身近な人のようである。席について祭壇の遺影に目をやると、黒い遺影リボンの後ろでにっこり笑っている故人の顔に戸惑いを覚えた。どちらかというと面長だった顔はまん丸になり、頭には髪の毛は1本もなく剃っているようである。私の記憶にある故人とはあまりにも違う変わりようである。隣に座る人にそのことを聞いてみた。するとその人も違和感を感じたのか、身内の人に聞いたことを話してくれた。この写真は入院の中のもので、お孫さん達が笑っている顔が良いからと遺影に選んだそうである。たぶん治療で使った抗がん剤の副作用で頭の毛は抜け、顔は浮腫んでしまったのであろう。闘病中の故人の苦悩を思わせる遺影である。
席についてしばらくすると、進行係のアナウンスから式は始まった。宗派は日蓮宗のようで、黄色い法衣に帽子で身を包んだ導師様が祭壇の前に着席する。お経が始まり日蓮宗独特の木柾(もくしょう)(木魚)がリズムを刻み、時々リンの音色がアクセントになる。淡々と読み進んでいくお経の中に「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」と覚えのある部分が何度も出てくる。しばらくして読経の中でご焼香が始まる。車輪つきの焼香台が喪主の前に置かれ、焼香が済むと隣の席へと周っていく。喪主の奥様は70歳代であろう、喪服の姿はほっそりとして小柄で品が良い人である。隣の席に娘さんであろうか50代の女性が並び、その隣もやはり50代の女性、そしてその隣は20代の男性とまだ学生のような女性と続く。たぶん喪主の奥様と2人の娘(姉妹)さん、そして妹さんの方の子供達(孫)であろう。時折奥様と2人の娘さんは右手に持ったハンカチで涙を拭っている。今まで故人のことしか知らなかったが、こうして見渡せば故人の家族環境のようなものを垣間見ることができる。
一時間を要して、葬儀と初七日の法要が終わった。お坊さんが退席すると喪主の挨拶である。型通りの挨拶の後、故人が好きだった「月の砂漠」の歌を唱和して欲しいと、歌詞のコピーが配られ、場内に伴奏が流れる。歌い終わったあと棺が会場の真ん中に置かれ蓋が開けられて故人との最後のお別れである。故人が愛用していたブレザーコートと帽子が入れられている。係りの人がお盆に盛ったお花を持ちまわり、参列者はそれを貰って白装束の故人の傍に置いていく。私もお花を貰って棺の中に置きながら故人の顔を拝見した。すると遺影の顔と違って、私の覚えている面影が残る穏やかな顔である。たぶん治療の終盤は抗がん剤を止めたから、顔の浮腫みも取れたのかもしれない。会場にいた男性数人で棺を持ち霊柩車まで運び、親戚縁者はマイクロバスと乗用車に分乗して火葬場に向かって出発して行った。後に残った参列者は三々五々それぞれの方向へ戻って行く。今回の葬儀は涙涙の様相はなかった。それは故人がすでに80歳を過ぎていること、亡くなるまでに1年と少しの期間があったこと、そんなことから家族にはある程度の納得の葬儀だったのかもしれない。
今までの人生の中で何度葬儀に出ただろうと振り返って見た。たぶん100回以上150回未満であろう。若いお父さんが亡くなって、残された奥さんと小さな子供たちが慟哭していた葬儀、冬の石巻のお寺で耐え難いような寒さだったこと、お寺で正座し痺れが切れて立てなかったこと、夏の暑い盛りにセミ時雨だけが記憶に残っている葬儀、会社関係のお偉いさんの葬儀でご焼香に築地本願寺に何百メートルも並んだこと、もし今までに参列した葬儀記録(故人と斎場)があれば、その時々の情景を思い出すことが出来るように思う。しかし今はその記憶は頭の中に散在していてすでに遠くの幻のようでもある。人は生まれてやがて死んでゆく、その最後のケジメとしての葬式も、いずれその人の記憶と共に忘れられていくのであろう。