私は自然科学が好である。それは子供の時に買って貰った「子供の科学(?)」という本の影響が大きいように思う。その本はたくさんの絵や図解が入っていて子供向けに分かりやすく書いてあった。本は何冊かあって地球の誕生や大陸移動説、水の循環や恐竜の話まで科学全般について載っていたように思う。その中で一番印象に残ったのは、「なぜ、北極や南極より赤道の方が暖かいのか?」という設問への解説であった。それまでおぼろげながら赤道の方が太陽に近いからだと思っていた。地球と太陽が向かい合った図を見たとき、そういう答えがイメージされたからである(その後同じ質問を誰にしても同様の答えが返ってくる)。実際には太陽と地球は膨大な距離がある。だから地球の丸みによる距離の差は太陽との距離に比べれば微々たるもので、エネルギーの到達量に変化はない。
正解は、赤道付近は直角方向から太陽のエネルギーが降り注ぎ、南極や北極付近は斜めから降り注ぐ、したがって同じ光の量は極に近くなるほど斜めに広がるからエネルギー量は分散する。したがって極に向かうほど気温は下がっていく。円柱に光を取り込み、円柱と直角に手を置くと光は手の上で丸い円になる。しかし斜めに手をかざすと光は楕円になり、その光が当たる面積は拡大する。したがって単位面積あたりの熱量は少なくなると言う理屈である。これを読んだとき、今まで持っていたイメージが払拭され、矛盾の無い解説に子供心に感心した。そしてそれ以来自然科学に興味を持ち、好きになって行ったように思う。
「なぜ空は青いのか?」、「なぜ夕日は赤いのか?」、「なぜ歩くと月が付いてくるように見えるのか?」、「宇宙の果てはあるのか?」、「あるとすればその外には何があるのか?」、「なぜ70度80度のサウナで焼けどをしないのか?」、「なぜ電子レンジで物が温まるのか?」等々、科学的な「なぜ」の種は尽きない。その後は自然科学から生物学に興味が移り、そして仕事で大勢の人に接するようになってからは、最も不可解なもの、「人」に対しての「なぜ?」へと興味は移っていった。今でもサイエンス関連の本はたくさん読んでいる。それは読むことによって、世の中の現象にはそれなりの法則があり、それを知ることで知的な興味を満足させてくれるように思うからであろう。
先日手にした科学のエッセイ(福岡伸一)で、久々にこの「なぜ」の興味を満足させくれるものに出合った。それは、「なぜ夜、電灯に虫が集まるのか?」というものである。今は都会に虫は少なくなったから、街灯に虫が集まる様子はあまり見ることはなくなった。しかし昔は夜になると外灯には虫が集まり、クルクルと回っているのはどこでも見られた光景である。そしてそこに舞う虫たちを見るたびに、「なぜ虫は光に集まってくるのだろう?」、「太陽の光と錯覚しているのだろうか?」、「そうであれば昼間は太陽に向かって飛ぶはずだが」、「電灯の光に太陽光線と違う誘引的な光があるのだろうか?」、「何回も電灯にぶつかっては落ちていく、虫たちに学習能力と言うものはないのだろうか?」、そんなことを思いながら見ていたように思う。しかし正解は全く別のところにあった。以下その答えである。
明かりに集まる虫たちは一般的に夜行性です。鳥のような捕食者から身を守るために太陽が出ているときは草の下や木のウロに潜んでいて、夜、暗くなってから樹液に集まるなど活動をします。夜行性の昆虫は弱い光を巧みに感知して行動していると考えられます。昆虫は人間の出現よりはるか昔から地球にいるわけですから、彼らが手がかりにしているのは人工の光ではなく、月や星の光です。そしてその光に向かって一直線に近づくのではなく 《もしそうなら月を目指してしまう》、光に対して一定の角度を保って飛ぶ習性を身につけたのです。月や星の光は遠くから来るので地球上を移動してもほぼ一点に動かずに見えます。(月を見ながら歩くと月が付いてくるように見えるのは、月までの距離が意識になく、近くの景色と同様に動くものだと錯覚するために起こる)。一点に止まっている光線に対して、絶えず一定の角度を保って飛ぶことができれば、風や障害物があっても、同じ方向を維持して飛ぶことができるわけです。
ところが人間が現れて、人工的な光で夜を明るくするようになると、夜行性の昆虫はこの人工の光に迷わされることになりました。特に野原にぽつんと立つ街灯のような存在が厄介です。人工の光は月と違って、近距離にあります。そして近いところにある光源から発せられる人工の光は放射状に広がります。このような光と月の光を勘違いして、光と一定の角度を保って飛行するとどうなるでしょう。光に対して正確に直角を保てばいつまでも光源の周りを周回することになります。少しでも鋭角を選ぶと、螺旋を描いて光源にどんどん引き寄せられてしまいます。よく灯火の周囲を虫がくるくると回って飛んでいるのはこのような理由からだと考えられます。さらに人工の光源に引き寄せられて、光に近づきすぎると、それは丁度夜行性の虫たちが昼間息をひそめているいるのと同じ状況をもたらします。つまり、夜行性の虫たちにとって、明るすぎる光はその行動を抑制してしまうのです。電灯の笠やガラス戸にとまった虫がじっとしているのはそのためです。
正解は、赤道付近は直角方向から太陽のエネルギーが降り注ぎ、南極や北極付近は斜めから降り注ぐ、したがって同じ光の量は極に近くなるほど斜めに広がるからエネルギー量は分散する。したがって極に向かうほど気温は下がっていく。円柱に光を取り込み、円柱と直角に手を置くと光は手の上で丸い円になる。しかし斜めに手をかざすと光は楕円になり、その光が当たる面積は拡大する。したがって単位面積あたりの熱量は少なくなると言う理屈である。これを読んだとき、今まで持っていたイメージが払拭され、矛盾の無い解説に子供心に感心した。そしてそれ以来自然科学に興味を持ち、好きになって行ったように思う。
「なぜ空は青いのか?」、「なぜ夕日は赤いのか?」、「なぜ歩くと月が付いてくるように見えるのか?」、「宇宙の果てはあるのか?」、「あるとすればその外には何があるのか?」、「なぜ70度80度のサウナで焼けどをしないのか?」、「なぜ電子レンジで物が温まるのか?」等々、科学的な「なぜ」の種は尽きない。その後は自然科学から生物学に興味が移り、そして仕事で大勢の人に接するようになってからは、最も不可解なもの、「人」に対しての「なぜ?」へと興味は移っていった。今でもサイエンス関連の本はたくさん読んでいる。それは読むことによって、世の中の現象にはそれなりの法則があり、それを知ることで知的な興味を満足させてくれるように思うからであろう。
先日手にした科学のエッセイ(福岡伸一)で、久々にこの「なぜ」の興味を満足させくれるものに出合った。それは、「なぜ夜、電灯に虫が集まるのか?」というものである。今は都会に虫は少なくなったから、街灯に虫が集まる様子はあまり見ることはなくなった。しかし昔は夜になると外灯には虫が集まり、クルクルと回っているのはどこでも見られた光景である。そしてそこに舞う虫たちを見るたびに、「なぜ虫は光に集まってくるのだろう?」、「太陽の光と錯覚しているのだろうか?」、「そうであれば昼間は太陽に向かって飛ぶはずだが」、「電灯の光に太陽光線と違う誘引的な光があるのだろうか?」、「何回も電灯にぶつかっては落ちていく、虫たちに学習能力と言うものはないのだろうか?」、そんなことを思いながら見ていたように思う。しかし正解は全く別のところにあった。以下その答えである。
明かりに集まる虫たちは一般的に夜行性です。鳥のような捕食者から身を守るために太陽が出ているときは草の下や木のウロに潜んでいて、夜、暗くなってから樹液に集まるなど活動をします。夜行性の昆虫は弱い光を巧みに感知して行動していると考えられます。昆虫は人間の出現よりはるか昔から地球にいるわけですから、彼らが手がかりにしているのは人工の光ではなく、月や星の光です。そしてその光に向かって一直線に近づくのではなく 《もしそうなら月を目指してしまう》、光に対して一定の角度を保って飛ぶ習性を身につけたのです。月や星の光は遠くから来るので地球上を移動してもほぼ一点に動かずに見えます。(月を見ながら歩くと月が付いてくるように見えるのは、月までの距離が意識になく、近くの景色と同様に動くものだと錯覚するために起こる)。一点に止まっている光線に対して、絶えず一定の角度を保って飛ぶことができれば、風や障害物があっても、同じ方向を維持して飛ぶことができるわけです。
ところが人間が現れて、人工的な光で夜を明るくするようになると、夜行性の昆虫はこの人工の光に迷わされることになりました。特に野原にぽつんと立つ街灯のような存在が厄介です。人工の光は月と違って、近距離にあります。そして近いところにある光源から発せられる人工の光は放射状に広がります。このような光と月の光を勘違いして、光と一定の角度を保って飛行するとどうなるでしょう。光に対して正確に直角を保てばいつまでも光源の周りを周回することになります。少しでも鋭角を選ぶと、螺旋を描いて光源にどんどん引き寄せられてしまいます。よく灯火の周囲を虫がくるくると回って飛んでいるのはこのような理由からだと考えられます。さらに人工の光源に引き寄せられて、光に近づきすぎると、それは丁度夜行性の虫たちが昼間息をひそめているいるのと同じ状況をもたらします。つまり、夜行性の虫たちにとって、明るすぎる光はその行動を抑制してしまうのです。電灯の笠やガラス戸にとまった虫がじっとしているのはそのためです。
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