60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

旅行4(故郷下関)

2015年09月04日 08時29分22秒 | 散歩(6)
 旅行5日目、同行の友人も前日に東京へ帰ったので、今日は一人で故郷の思い出の場所を歩く予定である。しかしあいにくの雨模様、駅でビニール傘を買い、立ち食いコーナーで懐かしい「かやくうどん」を食べてから街に出た。
 
          
 
 先ず最初に60数年前に通った小学校へ行くことにする。私が通っていた時は木造2階建ての校舎だったが、今は鉄筋コンクリートの三階建てに変わっている。しかし体育館も校舎の位置も同じ位置で、昔の雰囲気は残っている。夏休みでしかも雨、全く人の気配を感じない小学校を後に、6年間通いなれた通学路を昔の実家まで帰ってみることにした。
   
          
            
                                    小学校正門     
 
   
 
                          学校の校庭には誰もいない
 
   
 
  昔は大通りに感じた道は大人の目では車がすれ違うのにも窮屈な道であった。
 
          
 
    自動車道を5分くらい歩いてから石段を登って住居地区へ入る
 
   
 
       車が入れない小高い山の住宅地、その路地を縫うように歩く、
                あちらこちら廃屋が目に付く
                  
   
 
                    緩い下り坂
            小学校から歩き始めて初めて人を見た

           
 
        坂道を左に折れると小さな路地から茶山通りにでる
 出口の右の角は昔は豆腐屋だった。おからが鍋一杯で5円だった記憶がある
 
   
 
           昔は活気のあった茶山通りは今はシャッター街
 
   
 
       茶山通りを横切って再び車の入れない道を右に上がって行く。
 
   
 
    昔はひっきりなしに人とすれ違っていた分岐点、我が家は右に折れる。
       手前の黒い塀は天理教、昔よく子供会の集りに使われていた。
 
   
 
       今では通るのにもばかられるような路地、これを左に折れる
   
   
 
     これでも公道である。無秩序に冷房の室外機が出っ張っている。
                   突き当りを右に
 
   
 
    少し広い道にでる。子供の頃はここで夏休みのラジオ体操をしていた
 
   
 
                   ここを右に上がる
 
   
 
                     石段の前を左に折れる
   
   
 
         ここから家の占有の道。突き当りの右に石段があり門がある
 
   
 
                    旧の実家の門
   学校から子供の足で30分だった距離は今大人の足で15分程度である 
 
          
 
          見覚えのある郵便受け、今は名前も入っていない
 
   
 
       左が玄関、何年放置されているのか草が生い茂っている
       (門には鍵が掛かっているので隙間からカメラを入れ撮影)
 
         
 
              空調機の室外機も20年前と同じ
 
         
 
                    庭への門
   
   
 
                       庭
        植木は伸び放題、落ち葉が深く積もってて見る影も無い
 
   
 
       ぐるっと裏に回って高台から家の背戸(裏口)を眺める
      昔は母が畑に使っていた土地は木と草が生い茂っていた。
 
 20年ほど前、自分たちの体力と状況から判断し、この家では暮らせないと感じた両親は家を売り、息子(私の弟)のいる新潟に住まいを設け同居するようになった。その時家を買った人が10年程度住んでいたのだろうか?、その後この家が売りに出ていたことは知っていた。しかしそれ以来買い手がつかず、今は放置されたままなのだろう。空調機や洗濯機がそのまま放置されているということは、住んでいた人に突然なことがあったのだろうか?と推測してしまう。
 
 この家は祖父が大正期に建てた家である。したがってすでに築95年近くを経過しているはずである。父が幼少期から暮らし、母が嫁いできた家であり、我々四人の兄弟が育った場所である。そんな実家が放置され朽ち果てようとしている。人手に渡っているから如何ともしがたいことであるが、やはり寂しく口惜しい光景である。

 
 下関は三方海に囲まれ、山が海岸線まで迫っている地形である。そんな地形でありながら本州の最西端という位置から、九州や韓国への連絡口として明治、大正、昭和の初期に栄えた街である。当時は主な交通手段は鉄道と船、後は人力が頼りである。そんな状況で人口が増えていけば、当然駅や港に近い山にも住宅が建つようになる。無秩序に立てられた居住地区は人が通れる道さえあれば良く、石段や狭い道幅など車社会になることなど考えられていなかった。この環境は長崎や尾道も同じだったのであろう。
 
 戦時中に鉄道の関門トンネルが出来、戦後に自動車トンネルが出来、自動車専用の橋が架かり、新幹線用のトンネルが出来て、本州と九州は4本のパイプでつながれた。そうなると下関に交通の要所としての機能は無くなり、ただの通過点になってしまう。人口は徐々に減り、車社会に対応できない住居地が取り残されていった。
 
        下の写真は自分の記憶の中に残っていた思い出の風景である。
    
   
   
                 中学校への登下校の道
 
   
 
         母はここを通るたびに立ち止まってお参りしていた
 
   
 
          買い物の行き返りこの階段の昇り降りは大変である
  
   
 
 
   
 
 
   
 
   
   
 
   
   
 
               年寄りにはきつい階段である。
 
   
 
              城砦のような住宅と右側はお寺
    
 先週ブログにアップしたのは下関の表の顔であり、今回は裏の顔である。ここで取り上げた写真にはほとんど人が写っていない。別に意識して人を避けて撮ったわけでなく、実際に人が歩いていないのである。子供の頃あれだけ活気があり活動的だった町は、今はひっそり息を潜めてたたずんでいる。
 
 私は下関を離れてやがて半世紀になる。もうこの歳になれば、またいつ訪れられるか分からないと思い、今回は下関に3泊してみた。故郷の懐かしさを感じ、50年という時間の流れを痛烈に感じさせてくれた故郷であった。
 
 
                    終わり









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3 コメント

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はじめまして (たえこ)
2015-09-10 15:31:35
初めまして、たえこと申します。
色んなブログを見て回っている中で
下関の町があまりに趣き深いので、読み込んでしまいました。
子供の頃なら、なんとも思わない風景も時間が経ってから見ると様々な思い出が思いだされます。
どんなに時間が経っても昔毎日歩いた道は体と目が覚えていて、自然に歩けるから不思議です。
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Unknown (ひろし)
2015-09-11 17:24:18
市で車の入れない地区の都市計画が何度も考えられたようです。しかし権利者が多く結局何もなされないまま今に至っています。
歩いてみると、私の子供時代と全く変わっていないのに驚くほどです。変わったのは放置されたままの廃家、取り壊されて更地になった小さな空き地があるぐらいです。
子供時代から時間が止まっているようで、私にとってはタイムスリップしたような感覚になるのです。
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初めまして (M.Yukio)
2021-04-19 21:24:37
こんにちは。初めて旅行4(故郷下関)の記事にお目にかかり、私の実家のすぐ近くの写真が出てきたので驚きました。私も関西小、文洋中出身で1945年生まれです。長崎町東方司が実家です。本当に懐かしい写真ばかりでした。ご実家の近くには同級生もたくさんいました。長門市場方面に降りた所に、伊佐君や梅岡君がいました。記事は6年前なので、今は更に荒れているでしょうね。ご母堂様は晩年、新潟に移られたようですが、新潟のどちらですか。私は現在は東京在住ですが若い頃は新潟市内に住んでいました。下関と新潟・・なんだか不思議な縁を感じました。毎年墓参りで帰関していましたが、コロナで中断しています。早く旅行ができればと念じています。また下関の記事、楽しみにしています。初対面に持っ変わらず好き勝手なコメントをして、失礼の段、お許しください。
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