今、尖閣列島の領有権の問題で中国と不穏な雰囲気になってきている。先週から中国国内で反日デモや日本企業への焼き討ちや略奪、そして尖閣列島付近での漁船や監視船の出動と、中国はなりふりかまわない威嚇行動を取っている。こういうニュースを見るにつけ中国の本性を見る思いがし、不快感と同時に中国という国の不気味さを感じるのである。しかし、今世界全体では中東をはじめさまざまなところで紛争がおきている。極東の島国でアメリカの庇護の下で平和ボケしているといわれる我々日本人も、世界の争いの中で決し高みの見物をしていられる立場にはないことを突きつけられている感じである。
我々日本人は単一民族でしかも島国だから人種的な軋轢に鈍感で、どうしても他国のことも自分達と同じような認識で見てしまいがちである。しかし実際には歴史も宗教も考え方もまったく違う他民族なのである。東日本大震災の時、あの混乱の中で略奪や犯罪行為もなく、自制心と連帯意識が機能した行動に世界中の人々が称賛したといわれた。しかし反対に考えれば我々日本人は世界と比べて、理性が勝ち優等生然としすぎているのかも知れない。だから相手からすれば危険性は少なく甘く見られ、付け入る隙を見せているようにも思うのである。中国や韓国とは同じルーツを持つ民族同士だからか、あるいは戦争の後遺症からか、隣国にいながらあまり馴染まず、敵対心がすぐ表面化してしまう。もうここまで来たらこの問題は先送りせづ、中国とも韓国ともある程度の摩擦は覚悟の上で、堂々と渡り合っていく時期のように思うのである。
私が中国人(台湾)と直接接したのはもう25年前のことである。仕事である時期10回ぐらい(延べ日数で2ヶ月程)台湾に出張していたことがある。そのとき多くの台湾の人と親しくなり、本音で喋れるようになった。そしてその時初めて日本人との違いを感じたものである。まず彼らは国や企業などの体制を信用せず、自分のことは自分で守るという意識が非常に強いのである。金持ちは銀行に自分の資産を置かず、金の延べ棒やドルで金を持ち、アメリカに家を持って子弟は海外留学させている人も多いと聞いた。それはいざとなればいつでも逃げられる体勢を取っているのだそうである。また庶民レベルではほとんどの人が自宅の鍵を5個も6個も持ち歩いていた。それは何重にもロックしておかないと何時泥棒に入られるかわからないからという用心だそうである。当時は家族経営の会社も多く、そんな中小企業ではお金は絶対に身内意外には扱わせない。彼らは人はだます者裏切る者という前提であるから、基本的には家族以外の人は信じていないのである。また公衆のマナーは極端に悪く、部屋の窓から外へごみを捨て、街中の食堂でもテーブルの下へ平気で食べかすやごみを捨ててしまう。それは自分の周りさえ綺麗であれば他はどうでもいいという感覚からのようである。当時、そんな自己中心的な彼らの考え方を見聞きしたとき、国民性の違いをまざまざと感じたものである。
私の友人で仕事で中国本土に7~8年住んでいた男がいる。彼とはよく中国の話をするのだが彼曰く、親日的な台湾に比べ反日的な本土の方は、中国人の自己中心的な考え方に加え、さらに生き馬の目を抜くような油断のできない狡猾さを感じるそうである。役所などと仕事を旨くやろうと思えばワイロを使うのは当たり前、会社で従業員とトラブになれば平気で会社の器物を壊したり、エスケープしたり、仕事の妨害したりするそうである。自分の欠点や自分の非は認めず、それをとがめると反対に報復されかねないという。彼らは戦争当時の日本の非道な行為を学校教育の中で教えられているから、基本的には日本人には気を許さないし反発心を持っている。そんな中で仕事をやっていくためには、信賞失罰をはっきりし、物事に対してはあいまいにはしないスタンスが必要だといっていた。
広い中国では三国志の時代から覇権争いが繰り返され、何時の時代も人民はそれに翻弄され犠牲となってきた。そんな歴史の中で培われてきた中国人の自己本位で狡猾な国民性は筋金入りであるように思う。いまも一党独裁の中国は13億人の人民を700万人(5.5%)の共産党が牛耳っている。だから為政者は国民をどうコントロールしていくかが最大の課題で、そのためには国内の不満を反日に誘導してガス抜きを計るくらいは平気でやる。これも中国人の狡猾さである。さてこんな相手にどう対処していけばいいのだろうか、これは難問である。
今、騒ぎが落ち着くにつれ、裏で糸を引く権力者の作為が報道されるようになってきた。今はインターネットの時代である。どんなに国内で情報コントロールしようとしても、中国で起こっていることは瞬時に全世界に流れ、彼らのやり口も暴かれていく。だからこんなことを繰り返せば中国は無法な国として世界から敬遠され世界の協調からはみ出し、やがて中国バブルは弾けて経済的にも失速していくようになる。だから今日本は自分の主張を堂々と世界に訴え続けれていれば、いずれ攻守は逆転するように思うのである。
尖閣諸島の領有権について(今までは異端に思っていた)日本共産党の説明が一番公正で解かりやすいように思ったので、以下その文章の要約を載せてみた。
尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られていたが、中国の明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録は出ていない。一方、日本側にも、この時期に日本の領有を示すような歴史的文献は存在しない。したがって近代にいたるまで尖閣諸島は、いずれの国の領有にも属せず、いずれの国の支配も及んでいない、国際法でいうところの「無主の地」であった。
この「無主の地」の尖閣諸島を日本政府が沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで、1895年1月14日の閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為である。これは、「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている領土取得の権原のひとつである。日本政府は、尖閣諸島を沖縄県八重山郡に編入したあとの1896年9月、以前から貸与を願い出ていた古賀辰四郎氏に4島(魚釣、久場、南小島、北小島)の30年間の無料貸与の許可を与えた。古賀氏は尖閣諸島の開拓に着手し、貯水施設、船着き場、桟橋などの建設をすすめ、アホウドリの羽毛の採取や鳥糞の採掘などを主な事業にして「古賀村」が生まれた。これが尖閣諸島における最初の居住である。大正期に入ってからは鰹節の製造や海鳥のはく製製造がおもにおこなわれた。最盛期には漁夫やはく製づくりの職人など200人近い人びとが居住していた。このように、尖閣諸島にたいしては、第二次世界大戦まで中断することなく日本の実効支配がおこなわれてきた。
1945年の日本の敗戦により、日本が中国から奪った台湾などの地域は、連合国のカイロ宣言(1943年11月)やポツダム宣言(1945年7月)にもとづいて、中国への返還が決められ、実行された。このなかには、尖閣諸島は含まれていない。尖閣諸島は、沖縄の一部として、アメリカの軍事支配下におかれることになった。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、尖閣諸島を含む「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」などは米軍の施政権下に置かれ、米国は、一定の地代を支払うことと引き換えに、尖閣諸島の大正島と久場島を米軍射撃場として使ってきた。施政権は奪われていたとはいえ、尖閣諸島にたいする主権は日本にあった。日米の間で1971年6月に調印された沖縄返還協定が1972年5月15日に発効したことにともなって、尖閣諸島の施政権は日本に返還され、今日にいたっている。
一方、尖閣諸島に関する中国側の主張の中心点は、同諸島は台湾に付属する島嶼として中国固有の領土であり、日清戦争に乗じて日本が不当に奪ったものだ、という主張である。日清戦争(1894~95年)で日本は、台湾とその付属島嶼、澎湖列島などを中国から不当に割譲させ、中国への侵略の一歩をすすめた。しかし、尖閣諸島は、日本が不当に奪取した中国の領域には入っていない。
この問題では、台湾・澎湖の割譲を取り決めた日清講和条約(下関条約)の交渉過程、とりわけ、割譲範囲を規定した同条約第2条の「二、台湾全島およびその付属諸島嶼」のなかに尖閣諸島が含まれていたのかどうかが、重要な論点となる。
中国側の立場を擁護する主張の中には、日清戦争で敗戦国となった清国には、尖閣諸島のような絶海の小島を問題にするゆとりがなかった、とする見解もある。しかし、国際法上の抗議は、戦争の帰趨とは無関係にいつでもできるものである。もし、尖閣諸島が台湾に属すると認識していたのなら、講和条約の交渉過程でも、またその後でも、抗議できたはずである。 このように、日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった。
尖閣諸島をめぐる紛争問題を解決するために、何よりも重要なことは、日本政府が、尖閣諸島の領有の歴史上、国際法上の正当性について、国際社会および中国政府にたいして、理を尽くして主張することである。この点で、歴代の日本政府の態度には、1972年の日中国交正常化以来、本腰を入れて日本の領有の正当性を主張してこなかったという弱点がある。領土画定を明確にするよい機会であった1978年の日中平和友好条約締結の際に、中国のトウ小平副首相が尖閣諸島の領有問題の「一時棚上げ」を唱えたが、日本側は、日本の領有権を明確な形では主張しなかった。それは、尖閣諸島の領有権が日本にあることについて中国側に確認を申し出ることは「全く要らざることである」(福田首相の衆院外務委員会答弁、1978年10月16日)という立場からの態度だった。また1992年に中国が「領海および接続水域法」を採択し、尖閣諸島を自国領と明記した際には、外務省が口頭で抗議しただけで、政府としての本腰を入れた政治的・外交的対応はなかった。
我々日本人は単一民族でしかも島国だから人種的な軋轢に鈍感で、どうしても他国のことも自分達と同じような認識で見てしまいがちである。しかし実際には歴史も宗教も考え方もまったく違う他民族なのである。東日本大震災の時、あの混乱の中で略奪や犯罪行為もなく、自制心と連帯意識が機能した行動に世界中の人々が称賛したといわれた。しかし反対に考えれば我々日本人は世界と比べて、理性が勝ち優等生然としすぎているのかも知れない。だから相手からすれば危険性は少なく甘く見られ、付け入る隙を見せているようにも思うのである。中国や韓国とは同じルーツを持つ民族同士だからか、あるいは戦争の後遺症からか、隣国にいながらあまり馴染まず、敵対心がすぐ表面化してしまう。もうここまで来たらこの問題は先送りせづ、中国とも韓国ともある程度の摩擦は覚悟の上で、堂々と渡り合っていく時期のように思うのである。
私が中国人(台湾)と直接接したのはもう25年前のことである。仕事である時期10回ぐらい(延べ日数で2ヶ月程)台湾に出張していたことがある。そのとき多くの台湾の人と親しくなり、本音で喋れるようになった。そしてその時初めて日本人との違いを感じたものである。まず彼らは国や企業などの体制を信用せず、自分のことは自分で守るという意識が非常に強いのである。金持ちは銀行に自分の資産を置かず、金の延べ棒やドルで金を持ち、アメリカに家を持って子弟は海外留学させている人も多いと聞いた。それはいざとなればいつでも逃げられる体勢を取っているのだそうである。また庶民レベルではほとんどの人が自宅の鍵を5個も6個も持ち歩いていた。それは何重にもロックしておかないと何時泥棒に入られるかわからないからという用心だそうである。当時は家族経営の会社も多く、そんな中小企業ではお金は絶対に身内意外には扱わせない。彼らは人はだます者裏切る者という前提であるから、基本的には家族以外の人は信じていないのである。また公衆のマナーは極端に悪く、部屋の窓から外へごみを捨て、街中の食堂でもテーブルの下へ平気で食べかすやごみを捨ててしまう。それは自分の周りさえ綺麗であれば他はどうでもいいという感覚からのようである。当時、そんな自己中心的な彼らの考え方を見聞きしたとき、国民性の違いをまざまざと感じたものである。
私の友人で仕事で中国本土に7~8年住んでいた男がいる。彼とはよく中国の話をするのだが彼曰く、親日的な台湾に比べ反日的な本土の方は、中国人の自己中心的な考え方に加え、さらに生き馬の目を抜くような油断のできない狡猾さを感じるそうである。役所などと仕事を旨くやろうと思えばワイロを使うのは当たり前、会社で従業員とトラブになれば平気で会社の器物を壊したり、エスケープしたり、仕事の妨害したりするそうである。自分の欠点や自分の非は認めず、それをとがめると反対に報復されかねないという。彼らは戦争当時の日本の非道な行為を学校教育の中で教えられているから、基本的には日本人には気を許さないし反発心を持っている。そんな中で仕事をやっていくためには、信賞失罰をはっきりし、物事に対してはあいまいにはしないスタンスが必要だといっていた。
広い中国では三国志の時代から覇権争いが繰り返され、何時の時代も人民はそれに翻弄され犠牲となってきた。そんな歴史の中で培われてきた中国人の自己本位で狡猾な国民性は筋金入りであるように思う。いまも一党独裁の中国は13億人の人民を700万人(5.5%)の共産党が牛耳っている。だから為政者は国民をどうコントロールしていくかが最大の課題で、そのためには国内の不満を反日に誘導してガス抜きを計るくらいは平気でやる。これも中国人の狡猾さである。さてこんな相手にどう対処していけばいいのだろうか、これは難問である。
今、騒ぎが落ち着くにつれ、裏で糸を引く権力者の作為が報道されるようになってきた。今はインターネットの時代である。どんなに国内で情報コントロールしようとしても、中国で起こっていることは瞬時に全世界に流れ、彼らのやり口も暴かれていく。だからこんなことを繰り返せば中国は無法な国として世界から敬遠され世界の協調からはみ出し、やがて中国バブルは弾けて経済的にも失速していくようになる。だから今日本は自分の主張を堂々と世界に訴え続けれていれば、いずれ攻守は逆転するように思うのである。
尖閣諸島の領有権について(今までは異端に思っていた)日本共産党の説明が一番公正で解かりやすいように思ったので、以下その文章の要約を載せてみた。
尖閣諸島の存在は、古くから日本にも中国にも知られていたが、中国の明代や清代に中国が国家として領有を主張していたことを明らかにできるような記録は出ていない。一方、日本側にも、この時期に日本の領有を示すような歴史的文献は存在しない。したがって近代にいたるまで尖閣諸島は、いずれの国の領有にも属せず、いずれの国の支配も及んでいない、国際法でいうところの「無主の地」であった。
この「無主の地」の尖閣諸島を日本政府が沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで、1895年1月14日の閣議決定によって尖閣諸島を日本領に編入した。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為である。これは、「無主の地」を領有の意思をもって占有する「先占」にあたり、国際法で正当と認められている領土取得の権原のひとつである。日本政府は、尖閣諸島を沖縄県八重山郡に編入したあとの1896年9月、以前から貸与を願い出ていた古賀辰四郎氏に4島(魚釣、久場、南小島、北小島)の30年間の無料貸与の許可を与えた。古賀氏は尖閣諸島の開拓に着手し、貯水施設、船着き場、桟橋などの建設をすすめ、アホウドリの羽毛の採取や鳥糞の採掘などを主な事業にして「古賀村」が生まれた。これが尖閣諸島における最初の居住である。大正期に入ってからは鰹節の製造や海鳥のはく製製造がおもにおこなわれた。最盛期には漁夫やはく製づくりの職人など200人近い人びとが居住していた。このように、尖閣諸島にたいしては、第二次世界大戦まで中断することなく日本の実効支配がおこなわれてきた。
1945年の日本の敗戦により、日本が中国から奪った台湾などの地域は、連合国のカイロ宣言(1943年11月)やポツダム宣言(1945年7月)にもとづいて、中国への返還が決められ、実行された。このなかには、尖閣諸島は含まれていない。尖閣諸島は、沖縄の一部として、アメリカの軍事支配下におかれることになった。1951年9月に調印されたサンフランシスコ平和条約によって、尖閣諸島を含む「北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)」などは米軍の施政権下に置かれ、米国は、一定の地代を支払うことと引き換えに、尖閣諸島の大正島と久場島を米軍射撃場として使ってきた。施政権は奪われていたとはいえ、尖閣諸島にたいする主権は日本にあった。日米の間で1971年6月に調印された沖縄返還協定が1972年5月15日に発効したことにともなって、尖閣諸島の施政権は日本に返還され、今日にいたっている。
一方、尖閣諸島に関する中国側の主張の中心点は、同諸島は台湾に付属する島嶼として中国固有の領土であり、日清戦争に乗じて日本が不当に奪ったものだ、という主張である。日清戦争(1894~95年)で日本は、台湾とその付属島嶼、澎湖列島などを中国から不当に割譲させ、中国への侵略の一歩をすすめた。しかし、尖閣諸島は、日本が不当に奪取した中国の領域には入っていない。
この問題では、台湾・澎湖の割譲を取り決めた日清講和条約(下関条約)の交渉過程、とりわけ、割譲範囲を規定した同条約第2条の「二、台湾全島およびその付属諸島嶼」のなかに尖閣諸島が含まれていたのかどうかが、重要な論点となる。
中国側の立場を擁護する主張の中には、日清戦争で敗戦国となった清国には、尖閣諸島のような絶海の小島を問題にするゆとりがなかった、とする見解もある。しかし、国際法上の抗議は、戦争の帰趨とは無関係にいつでもできるものである。もし、尖閣諸島が台湾に属すると認識していたのなら、講和条約の交渉過程でも、またその後でも、抗議できたはずである。 このように、日本による尖閣諸島の領有は、日清戦争による台湾・澎湖列島の割譲という侵略主義、領土拡張主義とは性格がまったく異なる、正当な行為であった。
尖閣諸島をめぐる紛争問題を解決するために、何よりも重要なことは、日本政府が、尖閣諸島の領有の歴史上、国際法上の正当性について、国際社会および中国政府にたいして、理を尽くして主張することである。この点で、歴代の日本政府の態度には、1972年の日中国交正常化以来、本腰を入れて日本の領有の正当性を主張してこなかったという弱点がある。領土画定を明確にするよい機会であった1978年の日中平和友好条約締結の際に、中国のトウ小平副首相が尖閣諸島の領有問題の「一時棚上げ」を唱えたが、日本側は、日本の領有権を明確な形では主張しなかった。それは、尖閣諸島の領有権が日本にあることについて中国側に確認を申し出ることは「全く要らざることである」(福田首相の衆院外務委員会答弁、1978年10月16日)という立場からの態度だった。また1992年に中国が「領海および接続水域法」を採択し、尖閣諸島を自国領と明記した際には、外務省が口頭で抗議しただけで、政府としての本腰を入れた政治的・外交的対応はなかった。
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