60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

ワールドカップ、なぜ日本は勝てなかったのか?

2014年07月18日 09時07分35秒 | 散歩(4)
 今週月曜日(14日)、ドイツの優勝でサッカーのワールドカップが終わった。私は個人競技の方が好きで、サッカーのような団体競技にはあまり興味が持てない。それと、いつ得点が入るか分からない状況で45分間も凝視し続けてることに、歳と共に億劫さを感じるようになった。しかも男子サッカーは審判に見えないところで、相手の選手に噛みついたり、蹴飛ばしたり、またオーバーなゼスチャーで審判の目を欺き、ペナルティーを取ろうとするなど、フェアプレーに欠けていているのも嫌である。

 そんなことで、ワールドカップの実況中継は見ず、結果をTVのニュースと新聞のスポーツ記事で知る程度であった。そんな私がサッカーについて語る資格は無いのだが、あえて言えば日本チームは技術やスピードもさることながら、サッカーに対する執着や執念が他の国に比べて弱いようにも思えた。試合前はあれほど盛り上がっていたのに、日本が1勝もできず敗退すると、とたんにその熱も冷め、今度は「なぜ日本は勝てなかったのか」、という批評がマスコミをにぎあわせることになる。そして早々と次期監督選びが始まったようである。
 
 「なぜ日本は勝てなかったのか?」、これに対するスポーツ解説者の意見はさまざまである。技術面でまだ未熟だ、メンタル面での弱さが出た、戦術の失敗、個人技が見劣りする、対外試合など強化スケジュールに問題があった等々。しかし日本チームの敗因をそのような枝葉末節な総括で、次に進んで良いのだろうか?という疑問も残る。そんな中で、先日の朝のラジオ番組で、コメンテーター(東洋経済の山縣祐一郎)が語っていた解説が、私には一番納得のいくものであった。それは、
 
 ワールドカップは世界中が注目するスポーツイベントである。そんな試合に臨む各国のチームのエネルギーの根源は、国を代表して戦っているのだと言う、強烈な民族意識である。そんな代表チームの監督に日本は外国人監督で臨んでいる。果たしてこれで良いのだろうか、という疑問である。今までのワールドカップ(今回で18回)で優勝したチームは全て自国の監督であった。ザッケローニ監督がどうのと言うことではなく、イタリア語の通訳を介して監督から指導を受け、練習し、メンバーが選出されて試合に臨む。しかしあのような異様な雰囲気の中で勝っていくには、技術や能力だけではなくチーム全体の結束力が必須である。そのチームが、通訳を介しての監督と選手のコミニケーションで組み立てられている。今後日本のサッカーがより力を付けていくためには、日本人監督を育てていくことも重要な課題であろう。という指摘である。
 
 日本が最終戦に負けたあと、ザッケローニ監督は、「敗軍の将、兵を語らず。敗北の責任は全て私にある」と言って,、さっさとイタリアに帰ってしまった。やはり雇われの身であるから執着は少ない。そして選手の何人もが、「我々の目指すサッカーができなかった」と不完全燃焼の感想を述べていた。ワールドカップは異様な興奮の中で、国を背負っての代理戦争のような様相である。そのような中で、自軍の大将が言葉が通じない外国人では、一体感やは団結力は薄くなるのも仕方ないことである。監督や選手がそのことを直接には感じてはいないのか、それとも口にできないのか、しかし切羽詰ってのここ一番というときに、やはりそれは出てくるように思うのである。
 
 日本の女子サッカー、「なでしこジャパン」は佐々木監督が率いてワールドカップで優勝した。日本選手は諸外国の選手に比べて体力的には見劣りする。しかし監督と選手の信頼関係は強く、チームに一体感を感じられるように見えた。やはりチームでやるスポーツは、全体を束ねる強いリーダーシップが求められる。それには文化や言葉や感じ方が一緒の方がベターであろう。さて日本サッカー協会(JFA)は次期監督に元メキシコ代表監督のアギレ氏に一本化したという。今度日本選手はスペイン語の通訳を介して指導を受けることになるのだろう。日本人選手は言葉の壁を乗り越え、文化の違いを乗り越え、強くなるれるのであろうか?、私はそんな意味で日本サッカーに興味を持っている。
 
 
 
 
 
 
 

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