60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

趣味の世界

2011年09月09日 08時08分01秒 | Weblog
知人が習っている陶芸教室の作品展に顔を出して見た。会場は地方百貨店の最上階にある市民の
為のブース。30坪の会場には、20人程の生徒と先生の作品が作者ごとの括りで陳列してあった。
私は陶器にさほど関心はなかったのだが、知人の作品もあり、折角だからと意識して見ることにした。
一人の作品群をじっくりと見つめてみる、隣の人の作品とを比べてみる、そうすると作り手の性格や
キャリアの違いが、何となく分るように思えた。男性の作品、女性の作品、年配の人、若い人、ベテ
ランの人、始めて間もない人、ぼんやりとではあるが作品の中から読み取れるように思える。

「この人はもう習い始めて長いのでは?」「この人は頑固な性格の人?」「この人はムラ気な性格?」
一緒に回ってくれた知人に、あからさまなそんな質問しながら、作品と人との性格を関連付けてみる。
作品はその人が心を込めて作っているのだから、当然と言えば当然なのであろうが、陶器に作者の
心情がハッキリと反映せれることに、初めて気が付いた。陶芸を長くやっていて、自分の中にこんな
作品を作ってみたいという思いがしっかりとある人の作品は、それなりの存在感があるように思える。
そんな作品は形や線がスッキリと美しく、思わず触ってみたいという気持ちを呼び起こすようである。

前にも書いたが、今の私のテーマは仕事を辞めてから、無為に時間を過ごすのではなく、「何か打ち
込める趣味を見つけたい」である。その参考と思い、発表会や作品展には顔を出すようにしている。
絵画展、写真展、版画展や鎌倉彫から能面作り等々。そんな美術品や工芸品だけではなく、華道や
茶道、楽器や歌、運動の世界まで趣味の対象は多岐にわたっている。素人でもここまでやれるのか、
「継続は力」ではないが、長くやっている人の作品は趣があり、味があり、無駄が削げ落ちて美しさが
あるような気がする。そんな趣味に打ち込んでいる人を見るとうらやましくもあり、私の憧れでもある。

先日会った兄は、もう20年も前から弓道をやっている。今は5段への昇段を目指して精進している。
昇段試験は2本の矢を28m離れた36cmの的に2本とも当てなければいけない。手元が何ミリか
狂えば、的には何十cmも外れてしまう。最初の矢が当っても、2本目の矢は当らない。当てようと
意識すればするほど手元が狂ってくるそうである。弓道は平常心と無の境地を求められる。やれば
やるほど奥が深い、そんな話しをしていた。やはり知人で三線(沖縄三味線)をやっている人もいる。
初めて7年になるそうである。毎年沖縄で行われるコンクルールに2年に1度出場し、審査を受けて
ランクアップを図っている。新人賞、優秀賞と順調に合格して行き、今年は最高賞にチャレンジした。
最高賞は170名がエントリーし、結果は30名が合格して、合格者中2位の成績だったそうである。
舞台に上がり大勢の人が見つめる中で、一人づつ三線を引き歌を唄う。その緊張は並大抵でなく、
時には三線をとり落としそうになったり、声が震えそうになるのを必死で堪えていく。そんな緊張感を
経験して勝ち得た2位は晴れがましく、自分の自信につながったように思う。そんな話をしてくれた。

趣味に打ち込んでいる人の話を聞いていると、そこにはさまざまな困難があり喜びもあるようである。
そしてそこには日常では味わえない別な世界が広がっているように思もってしまう。できればそんな
世界も経験してみたい。果して自分には何が向いていて、何ができそうなのか?そんなことを何時も
考えている。人に言わせれば、「そんなこと、自分の好きなことをやれば良い」、「あまり考えず、まず
やって見て、それで自分にできるかどうかを判断すれば良い」などと言われる。だが、それが難しい
のである。私の中に、あまりハッキリした好き嫌いのバロメーターがない。早い話し感性が豊かでは
ないのだろう。次に作品展などみて自分ならどのレベルまで行くのだろうと、考えてしまう。考えれば
考えるほど冷めた見方になって結局は何もできないでいる。ありていに言えば、何かがしたくてその
道を求めるのではなく、仕事を辞めて時間が余るから、それを埋める為に趣味を作ろうとしている。
自分に趣味が持てないのは、動機が不純だからなのであろうか。入口は沢山ある。もうこうなったら
何か切っ掛けを捕まえて、その時は躊躇せず飛び込むしかないのだろう。

               

               

               
               作品展の生徒さんが描いたスケッチも展示されていた。

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