電車に乗るとよく見かける光景がある。2人のオバさんが座って脇にそれぞれの荷物を置いている。
人の悪口なのか互いに真剣に話し込んでいる。駅に着くたびに人が乗ってきて座席が埋まって行く。
しかし話に夢中なそのオバさん達は座席の荷物をどけようともしない。
女性はいつから周りに気を配らなくなるのであろう。厚顔無恥とはこんなことを言うのだろうと思う。
電車での立ち姿、座った時の脚の組み方、若い時あれだけ気を使っていた女性がどうしたのだろう。
歳を取るに従って、羞恥心がなくなって行き、しだいに「オバさん」化していくのだろうか?
いや、歳のせいだけでもないであろう。年配の人でその立ち振る舞いや言葉にも品のある人もいる。
先日読んでいた本で、長年の課題であった「女」と「オバさん」の区分けで納得いく説明があった。
「男」と「オヤジ」についてもある種共通する部分がある。以下その本の説明を抜粋してみる。
世の女性はその実質において「女」と「オバさん」に分れる。それは若さとか見かけの問題ではない。
隠すのがうまい女性が「女」である。ところが女性が「オバさん」化してしまうと、「隠す/見せる」の
コントラストを欠いてしまう。それは顔の化粧の問題ではなく「言動」の問題である。「オバさん」は時も
場所も相手も選ばず何事も包み隠すことを、なくしてしまうのだ。これを「無意識の垂れ流し」と言う。
おそらく「女」も「オバさん」も、思っていること、感じていることの「総量」はそうは違わないはずだ。
しかし「オバさん」は思ったことを片っぱしから口にしてしまう。その一方で「女」は口数が少ない。
「女」は心に思ったことのうち何を表出するかを考え、言葉を選ぶからだ。
たとえば、大勢の人が集まる場で、冷房の効きが弱いのか蒸し暑かったとする。
そんな場面で「オバさん」は会場に入ったとたん声をあげてしまう。
「あー暑いわね、暑い!、暑いわよねぇ、暑い暑い。クーラーが壊れているのかしら。喉が渇くわよね。
本当に暑い。窓開けた方がいいかしらね・・・・・・」と。このように、思ったことを逐一言われ続けると、
同席者にとってはノイズになってしまう。周りは聞こえないふりでもしてやり過ごすしかなくなる。
「いちばん暑苦しいのはお前なんだよ・・」とこころの中で呟きながら、
「女」は思ったことのすべてを口はしない。だから「この部屋、暑いですね」と一言言ったとたん、
周りの男たちはそわそわしはじめる。「何か冷たい飲み物を持ってこようか?」「窓を開けようか?」
それとも、彼女はどこか涼しいところに自分と一緒に行きたがっているのかもしれないと・・・・・・・。
男はこういう状況になるといてもたってもいられない。彼女が発した「暑いですね」の一言の真実を探ろ
うと必死になってしまう。要は発した言葉に駆り立てられるのではなく、隠された言葉に駆り立てられ
るのだ。
それでは男性はどうかというと、これほど隠しごとが苦手な生き物もいない。自分では必死に隠して
いるつもりでも、たいてい周囲は気がついているものだ。とくに女性は男性の秘密には鼻が利く。
誰も気が付いていないと信じているのは当人だけ、ということはよくある話である。
かといって、どうせバレているくらいならと、無意識の垂れ流しをすれば「オヤジ」化してしまう。
男性の場合はまた、無意識の垂れ流しと権力が結びついたりするから、なおさら質が悪い。
それではどうすれば男性はオヤジ化せずに「男」でいられるのだろうか。それには何を外に出して、
何を内にしまいこむかという選択が必要最低条件であることは当然だが、外に出す場合、
何を「どのように」表出するかが問われるのである。
それは本来なら隠しておきたいような自分の弱点や欠点を、人前でユーモアを交えて語ることである。
たとえば腹が出ている。頭の毛が薄い、背が低いといったことにコンプレックスを持っていたとして、
それを隠そうとすればするほど、周囲は腫れものにさわるようになり、その場の空気は張りつめる。
周囲との絶対的な距離感を生じてしまうことになる。
ところが自分の欠点を自らユーモアを交えて語れれば、緊迫した空気は和みお互いの距離も縮まる。
これを実践しているのがお笑い芸人。彼らはなぜモテるのか、それはこんな知見があったのだ。
あえて自分の欠点を他人に披露したがる人はいないだろう。しかし、対話の相手が受け止めるのは、
明示されたその人の欠点よりも、むしろ自分自身を客観的に見ることができる成熟した知性の方だ。
ゆえに女性から好感を得ることができるのである。
「化粧する脳」 茂木健一郎 著 より抜粋
結局、男女とも歳とともに「意識する」ことが億劫になって、「無意識の垂れ流し」になるのだろう。
服装も、立ち振る舞いも、言葉使いも、常に自分の意識下でコントロールされていなければいけない。
そんな風に意識し続けていける女性や男性が、「オバさん」や「オヤジ」から免れるのであろうと思う。
私ももう充分な「オヤジ」である。できれば「オヤジ」を脱し『男の真ん中でいたい』ものである
人の悪口なのか互いに真剣に話し込んでいる。駅に着くたびに人が乗ってきて座席が埋まって行く。
しかし話に夢中なそのオバさん達は座席の荷物をどけようともしない。
女性はいつから周りに気を配らなくなるのであろう。厚顔無恥とはこんなことを言うのだろうと思う。
電車での立ち姿、座った時の脚の組み方、若い時あれだけ気を使っていた女性がどうしたのだろう。
歳を取るに従って、羞恥心がなくなって行き、しだいに「オバさん」化していくのだろうか?
いや、歳のせいだけでもないであろう。年配の人でその立ち振る舞いや言葉にも品のある人もいる。
先日読んでいた本で、長年の課題であった「女」と「オバさん」の区分けで納得いく説明があった。
「男」と「オヤジ」についてもある種共通する部分がある。以下その本の説明を抜粋してみる。
世の女性はその実質において「女」と「オバさん」に分れる。それは若さとか見かけの問題ではない。
隠すのがうまい女性が「女」である。ところが女性が「オバさん」化してしまうと、「隠す/見せる」の
コントラストを欠いてしまう。それは顔の化粧の問題ではなく「言動」の問題である。「オバさん」は時も
場所も相手も選ばず何事も包み隠すことを、なくしてしまうのだ。これを「無意識の垂れ流し」と言う。
おそらく「女」も「オバさん」も、思っていること、感じていることの「総量」はそうは違わないはずだ。
しかし「オバさん」は思ったことを片っぱしから口にしてしまう。その一方で「女」は口数が少ない。
「女」は心に思ったことのうち何を表出するかを考え、言葉を選ぶからだ。
たとえば、大勢の人が集まる場で、冷房の効きが弱いのか蒸し暑かったとする。
そんな場面で「オバさん」は会場に入ったとたん声をあげてしまう。
「あー暑いわね、暑い!、暑いわよねぇ、暑い暑い。クーラーが壊れているのかしら。喉が渇くわよね。
本当に暑い。窓開けた方がいいかしらね・・・・・・」と。このように、思ったことを逐一言われ続けると、
同席者にとってはノイズになってしまう。周りは聞こえないふりでもしてやり過ごすしかなくなる。
「いちばん暑苦しいのはお前なんだよ・・」とこころの中で呟きながら、
「女」は思ったことのすべてを口はしない。だから「この部屋、暑いですね」と一言言ったとたん、
周りの男たちはそわそわしはじめる。「何か冷たい飲み物を持ってこようか?」「窓を開けようか?」
それとも、彼女はどこか涼しいところに自分と一緒に行きたがっているのかもしれないと・・・・・・・。
男はこういう状況になるといてもたってもいられない。彼女が発した「暑いですね」の一言の真実を探ろ
うと必死になってしまう。要は発した言葉に駆り立てられるのではなく、隠された言葉に駆り立てられ
るのだ。
それでは男性はどうかというと、これほど隠しごとが苦手な生き物もいない。自分では必死に隠して
いるつもりでも、たいてい周囲は気がついているものだ。とくに女性は男性の秘密には鼻が利く。
誰も気が付いていないと信じているのは当人だけ、ということはよくある話である。
かといって、どうせバレているくらいならと、無意識の垂れ流しをすれば「オヤジ」化してしまう。
男性の場合はまた、無意識の垂れ流しと権力が結びついたりするから、なおさら質が悪い。
それではどうすれば男性はオヤジ化せずに「男」でいられるのだろうか。それには何を外に出して、
何を内にしまいこむかという選択が必要最低条件であることは当然だが、外に出す場合、
何を「どのように」表出するかが問われるのである。
それは本来なら隠しておきたいような自分の弱点や欠点を、人前でユーモアを交えて語ることである。
たとえば腹が出ている。頭の毛が薄い、背が低いといったことにコンプレックスを持っていたとして、
それを隠そうとすればするほど、周囲は腫れものにさわるようになり、その場の空気は張りつめる。
周囲との絶対的な距離感を生じてしまうことになる。
ところが自分の欠点を自らユーモアを交えて語れれば、緊迫した空気は和みお互いの距離も縮まる。
これを実践しているのがお笑い芸人。彼らはなぜモテるのか、それはこんな知見があったのだ。
あえて自分の欠点を他人に披露したがる人はいないだろう。しかし、対話の相手が受け止めるのは、
明示されたその人の欠点よりも、むしろ自分自身を客観的に見ることができる成熟した知性の方だ。
ゆえに女性から好感を得ることができるのである。
「化粧する脳」 茂木健一郎 著 より抜粋
結局、男女とも歳とともに「意識する」ことが億劫になって、「無意識の垂れ流し」になるのだろう。
服装も、立ち振る舞いも、言葉使いも、常に自分の意識下でコントロールされていなければいけない。
そんな風に意識し続けていける女性や男性が、「オバさん」や「オヤジ」から免れるのであろうと思う。
私ももう充分な「オヤジ」である。できれば「オヤジ」を脱し『男の真ん中でいたい』ものである
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