Fさんの日々の記録と山歩き

 山歩きが生き甲斐の団塊世代オッサン、ある事無い事日々感ずるままに綴っていこうと思います。

大震災から3年、石巻市大川小学校を訪れて思った事

2014年03月14日 | 日記

 3月14日(金)

 まる3周年を迎えた東北大震災、当日の3月11日にはメディアも大々的に報道したが、その翌日には変わり映えせぬいつもの番組に戻っていた。薄情なもんだと批判するつもりは無いが、時の流れは移ろい易いものだとつくづく実感する。

 幾度かのボランティア体験しかない私に大震災を語る見識はそれ程ないが、多くの児童教師が犠牲になった石巻市大川小学校の悲劇は、3年前とその翌年に2回訪れており極めて印象が深い。

 最初訪れた時は瓦礫も片付いておらず、仮道の開削が精一杯という感じで、凄惨な雰囲気に同行した人は沈痛な面持ちで涙を流す人もいた。それが翌年訪れると立派な祭壇が供えられ瓦礫もすっかり片づいて、妙にアッケラカンとした光景に変わっていた。

 震災時在校していた児童106名のうち74名、教師11名中10名の方が犠牲になられたという。この時学校の対応が大問題となっており、遺族が学校側を訴える事態までなった。

 裏山へ避難すれば津波からは逃れる術があったのに、何故50分もの間、校庭に留まっていたのかと怒るご遺族の気持ちもよく判る。朝日新聞を始め多くのメディアの報道を見ても、遺族側に心情を傾け学校側の非を論じる風潮が強い。

 しかし、私があの時現場にいた教師の立場であったらと考えると複雑な思いになる。訪れた時受けた説明では、海から5キロ離れた位置にある大川小学校自体が災害時の避難場所に設定されており、実際震災当日には住民の方も避難して来たという。

 又200m程離れた裏山は、度重なる余震で山崩れの恐れがあり、雪の付いた急斜面は大人でも難儀するような地形だ。校舎横の川沿いには堤防も築かれており(結果的にはこの堤防があった為、川の状況が判らず被害を増大させた感がある。)その時現地にいた人の殆どが、学校に津波が押し寄せるという事態など想像もできなかったのではないだろうか。

 それが判っていれば、遺族の親御さんだって我が子を救うべく万難を排して学校へ駆けつけただろう。(実際に我が子を迎えに行った親御さんもいた。)それが可能な時間はあったのだから。

 だから私は遺族に寄り添い一方的に学校側を糾弾する報道の論調には同調し兼ねる面がある。千年に一度の震災は人智の予測をはるかに超えていた。やるべき事はこの悲惨な体験を風化させず、しっかり伝えて後世の人に役立てる事だと思います。

 平成24年訪れた大川小学校

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