monologue
夜明けに向けて
 



グッドモーニングアメリカなど全米ネットワークテレビショーでトムクルーズのパリオリンピックから次のロサンジェルスオリンピックへの旗の手渡し式の模様を報じ、ハート・ウオーミング、すごいと賞賛している。
ネットでもハリウッドサインを五輪のマークにしたり楽しい動画が配信されている。わたしはロサンジェルス時代、あのハリウッドサインのHの看板のところにあったユダヤ人医師の家にホームステイしていたのだった。
fumio


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kid  


ベスト・キッドシリーズ主演のダニエル ・ラルフ・マッチオは気のいい若者で「本当は沖縄空手じゃなく出村先生の流派だったんだ。それで撮影には出村先生が教えに来ていたよ。」と明かしてくれた。その後、全米空手選手権大会が開催された時、沖縄小林流空手チームは黒人インストラクター、ロンが率いていたのだが、出村先生のチームや他のチームが優勢だった。わたしたち夫婦は息子が通う沖縄空手道場のチームを応援したのだが優勝はできなかったのだった。
fumio

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karate  




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1984年に製作された「カラテキッド(The Karate Kid)」邦題「 ベスト・キッド」という映画がテレビで放映されるという。
映画は大ヒットしてピコ通りにあった沖縄小林流空手道場は入門する少年たちで大盛況になった。太田英八道場主はカラオケ好きでオキナワ県人祭りでその咽喉を披露していた。その沖縄県人祭りで会った先生役のノリユキ・パット・モリタは「アイ・ネヴァー・ラーンド・カラテ(わたしは空手を習ったたことがないんだ」)とわたしに笑いかけたのだった。
fumio


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66  


一時、巨大竜巻がカリフォルニアで発生したことをよく報じていたことがある。ABCニュースではキャスター、ダイアン・ソウヤーが竜巻の被害に遭ったミズーリ州ジョプリンから中継してジョプリンの町を説明するのに「ルート66」の歌を覚えていますかと視聴者に尋ねた。
「ルート66」とはシカゴからカリフォルニアまで2000マイル以上も走って達するという歌でまずナット・キング・コールでヒットして
同名のテレビシリーズができた時、主題歌としてジョージ・マハリスがロック風に歌っていた。その歌詞は「ジョプリン・ミズーリ、オクラホマシテイ 」とジョプリンや、オクラホマシテイが途中で出てくるのである。オクラホマシテイにはライブハウスに息子が大学時代「エンプティカップ」というバンドで週末に出演していた。
わたしは息子のオクラホマの大学バンドメンバーマイケルやブランドンたちとMSNメッセンジャーで交流したとき、かれらは勝新太郎のファンで実際に会ったことがあるかとわたしに尋ねてきたりしてそれからセッションしたいというのでかれらの演奏を数曲聴かせてもらったあと、わたしにもなにか歌えという。
それで歌詞にかれらの町、オクラホマシティが出てくる「ルート66」を選んで伴奏を頼んだものだった。
まだADSLの時代でインターネットで米国で伴奏し日本で歌うのは太平洋をまたぐタイムラグがあってギターの音が微妙に遅れてリズムがとりにくかった。「ルート66」の最終地点サンタモニカの海岸からそのまま海に入り海底の太平洋プレート上を走れば日本に達するのだ。その日のわたしたちのパフォーマンスは本当の「ルート66」だったのである。
あの時のインターネットのチャットに集まりわたしと楽しい時間を共有した先進的なオクラホマの大学生たちは日本人は英語で普通に会話できてアメリカのテレビシリーズの主題歌程度なら原語で歌えるのだと思っただろうか。
fumio

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宮下フミオの自宅スタジオに集まるアーティストのひとり、「走れコウタロー」でヒットした山本コウタロー(本名・山本厚太郎)は1年間アメリカで暮らしていた。かれはパチンコが好きだったらしくリトルトーキョーでパチンコ台と玉を買ってきて遊んでいた。
その頃のロサンジェルスには梁山泊のような芸術家集団が共同で大きな家に暮らしていた。ある日、かれらがサンフランシスコに自生するマジックマッシュルームを採ってきてカレーを作ったことがあった。わたしがその家に行って将棋をしていると昼食を食べろというのでキノコが入っていることを知らず勧められるままに食べているところにコータローが来てかれも勧められて一緒にそのカレーを食べたのである。わたしは将棋をしているうちにそのキノコの成分が効いてなにがなんだかわからなくなっていつも勝つ相手に負けかけた。コータローはサンタモニカ海岸までドライブしてきて帰ってくると太陽がすごい勢いで海に落ちたように見えたという。やはり感覚がおかしくなったらしい。そして、一休みした時わたしが将棋を指そうか、というと嫌がったのだった。
それからある時かれはシゲ(中島茂男)とわたしがコンビで出演してるハリウッドのクラブを訪れてじっと聴いていた。わたしたちはその頃、今は日本でもCD化されているプログレッシヴロックアルバム「プロセス」を作るために曲をクラブで実際に色々演奏しながら仕上げていたのだった。未完成で曲はまだ中途半端だったのであまりよく思えなかったことだろう。
そして日本に帰ると「アメリカあげます」という本を書いて中島に送って来た。その「アメリカあげます」の中でコータローはわたしの相棒ギタリスト、中島茂男を名指しでがんばれ、と応援している。
そのコータロー自身アメリカでレコードを作ろうとしたがカラオケはできたけれど最後のヴォーカル録音で満足できる歌が録音できなかったので発売までゆけなかったという。2022年7月4日、山本コウタロー、73歳で脳内出血で死去。合掌。
fumio

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憧れ  


その頃、米国でハリウッド制作戦国ドラマ「Shogun」が大ヒットしていた。
そのヒロイン島田陽子も宮下フミオの自宅にやって来た.
映画「人間の証明」で主役の黒人ハーフの青年を演じたジョー山中は家が見つかるまで居候していた。わたしが相棒のシゲさんをエンターテイナーの仕事で迎えに行くと
「行ってらっしゃい」とわたしたちを送り出してくれた。すごく礼儀正しい好青年だった。クラブの仕事が終わってわたしが車でシゲさんを宮下家に送ってゆくと「おかえりなさい」とリビングルームで待っていたのである。
京都駅前のデパート「丸物」屋上の海外ニュースでよく動静を採り上げられていた、ミッキー・カーチスと「サムライ」もその頃ツアーで、ロサンジェルスに廻って来たのである。それでわたしがしばらくのちにプログレッシヴロックアルバム「プロセス」を製作する時、宮下にプロデュースを頼みミッキーカーチスのバンドのツアーで来ていた島健にピアノを頼んだのだった。思えば、丸物デパートでの憧れがそんな風に実を結んだようだ。
fumio

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スリーフィンガーピッキングといえば加藤和彦を思い出す。
NHK教育テレビの「スリーフィンガーピッキング奏法講座」で弾き方を教えていた。おかげでわたしもスリーフィンガーピッキングができるようになったのだ。
日本中のフォーク系のギタリストの先生のような存在だった.音楽的感性が秀でていて「帰って来たヨッパライ」「あの素晴しい愛をもう一度」「タイムマシンにおねがい」など新たな感覚で時代を開く存在として生きた。ロックバンド「サディスティック・ミカ・バンド」ではイギリスに行き活躍した。すごいと感心した。
 当時、加藤和彦の母校、龍谷大学の講堂でライブコンサートがよく開かれて、わたしがスリーフィンガーピッキングで歌った 「打ち上げ花火」を女性デュオで歌いたいというのでOKした。その頃はまだ二番までしかなかったがかの女たちの参加したコンサートを見に行くとでスリーフィンガー奏法で立派に演奏していた。男のわたしが歌うより詩情に溢れているような気がした。京都という土地柄、わたしの知らないうちにご当地フォークとしてかの女たちのまわりでヒットしていたようだった。加藤和彦が拡めたスリーフィンガーピッキングは日本国内にとどまらず多くのアーティストに受け継がれた。
わたしはアメリカのハイスクールでアルゼンチン娘、オルガのエキゾチック日本語発音の「打ち上げ花火」のバックをスリーフィンガーピッキング演奏してクラスメイトや学校中に大好評になって日本でデビューさせるといいと盛り上がったものだった。日本でヒットしたかも…。しかし、オルガはすぐに中国系アメリカ人と結婚してアメリカ永住権をとったので日本には来なかっただろうとふと思う。
fumio

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渡米  


その頃、京都駅前の丸物デパートの屋上の海外ニュースコーナーでミッキーカーチスとサムライというバンドが海外ツアーをしているというニュースを読んで憧れたわたしは英語の歌を歌って生活するには本場アメリカでなければと思って渡米を決意して、ロサンジェルスのアソシエイテッドテクニカルカレッジに留学した。そしてすぐに転校したLAハイスクールのわたしたちのクラスにアルゼンチンから来たオルガ(OLGA GOMEZ)というかわいい白人系女生徒が入ってきた。アルゼンチンで撮ったフイルムを学校で映してみんなにアルゼンチンの紹介をしたりしてものおじしない外交的な性格だった。わたしがギターを弾くと知ると「タッチ・ミー・イン・ザ・モーニング」や「ユー・ライト・アップ・マイ・ライフ」「ウイ・アー・オール・アローン」などのバックを弾いてくれと頼んで歌った。声も良くてうまかった。歌手になりたいようだった。わたしの作った歌も歌いたがったので京都で女性フォークデュオが歌って人気があった「打ち上げ花火」の1番と2番をローマ字で書いて教えるとすぐにエキゾチックな香りのする発音の日本語で歌えるようになった。わたしはスリーフィンガーピッキングでバックを弾きながらコーラスしたのだった。
fumio

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十字屋楽器店が主催する音楽サークルの天下一を争う演奏コンテストの結果は次週の十字屋の広報誌に掲載された。
ナンバーワンは石塚成孝(いしづかしげたか),越智友嗣(おちゆうじ)、井上博(いのうえひろし)のフォークグループ「ザ・ヴァニティー」だった。そして2位はキーボードが口髭(マスタッシュ)を蓄えているのでタッシュグループと名付けた関西ナンバーワンのソウルロックバンドと謳われたバンド「タッシュグループ」
 「・高畑晃   バンド・リーダー。エレキ・ギター。
  ・荒木卓郎  パーカッション。ギター。
  ・河合循   オルガン。
  ・古城たかし ヴォーカル。
  ・小川修   ドラムス。
  ・葵和行   ベース。」であった。
かれらのパフォーマンスはオーティス・レディングの「トライ・ア・リトル・テンダーネス」をスリードッグナイト風
に白熱演奏してすごかった。まだそのころ高価で普及していなかったテープエコーをマイクにつなぎヴォーカルのスリムな古城たかしが足踏みして踊りながら歌うのだがリーダーのギター高畑晃の合図でいっせいに決め(キメ)で盛り上げる。何度か繰り返し終わったかと思うとバックが再び決め(キメ)を演奏し、古城がはじけるように踊り息も絶え絶えに歌い上げる。オーティスやジェームス・ブラウンのステージをよく研究していたようだ。その圧倒的なステージにはだれもがスゴイものを見たと魅了された。わたしは古城たかしのリズム感とヴォーカルフィーリングに一目おいていた。古城は普段地味な青年で話をしていても控えめな態度だった。舞台に出て歌いだすと変貌するのである。かれらはのちに古城たかしとブルー・タッシュと名乗り京都レコードから「東京の夜に泣いている」をリリースしてレコードデビューした。
わたしはその演奏会に飛び入りのように参加して弟のギターの伴奏でアンチェインドメロデイを歌ったのである。作曲家山室紘一氏がサークルの顧問をしていて「ギター一本ではなくオーケストラのバックで聴きたい」とのコメントをくれたのを記憶している。しかしながら、その後わたしはアメリカでソウルやロックを歌って生活することを選択して渡米してクラブのエンターテイナーやレコード製作などミュージシャン活動したのだった。
fumio

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「未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind)」 という映画が1977年11月に公開された。翌年、その題名にちなんだような「エンカウンター(Encounter)」という日系の大型クラブがロサンジェルスのダウンタウンに開店するのでエンターティナーのオーディションがあるという噂が流れた。行くと多くのミュージシャンが集まっていた。
ロサンジジェルスのエンターティナーといっても色々でピアニスト、ギター奏者、ハープ奏者、ジャズバンド、マリアッチ、ロックバンドなどなど店や地区、人種によって様々である。当時エンターテイナーとして活躍していたロサンジェルス中のピアニスト、ギタリストが集まって覇を競った。ピアニストが多くギターではレコード大賞を獲得した「シクラメンのかほり」を弾き語りする人が多かった。順番にパフォーマンスをしてゆき、わたしも順番が来ると「シクラメンのかほり」をギターで弾き語りした。支配人は一週間分のエンターティナーを選考してそれぞれに曜日をあてがった。選ばれたのはやはりほとんどがピアニストだった。日本でレコードを出している歌手もいた。結局、ギターで選ばれたのはアコースティックギターのわたしとヒゲが印象的なエレクトリックギターの中島茂男だけだった。マネージャー、ジョージ氏は最後に、君たちはふたりでやってくれという。エンターティナーが二人でやるというのは聞いたことがない変な話しだったけれどバンドの入っている雰囲気がして店が華やぎ演奏が豪華になる。開店してしばらく店は大盛況だった。客が帰ったあと多くのホステスたちがチップの取り分争いでつかみ合いするのを目のあたりにして驚いたりしたものだった。
「エンカウンター」の支配人ジョージ氏は、プロデュース能力に恵まれて様々なイベントを企画してその開催したエンターテイナーオーデションはさながら天下一ミュージシャン選考会の様相を呈して日頃顔を合わせることのない他のエンターテイナーと知り合ったりしてコンテスト独特のある種の高揚感に包まれて楽しかった。その様子をラジオ局のサテライトスタジオと化したクラブからリモート生中継したりしてアナウンサーが番組の中でわたしになにか歌えと所望するのでわたしはその日の担当のピアニストにバック伴奏を頼んで「また逢う日まで」をライブで歌ったものだった。ところが、開店当時大繁盛していたクラブ「エンカウンター」が経営不振で突然つぶれてしまったのである。それでわたしはシゲさんとふたりで働ける店を探してハリウッドのクラブ「蝶」やLAPD(ロス市警)の隣の店「燈り」やダウンタウンのリトルトーキョーの白龍飯店(インペリアルドラゴン)に一緒に出ることにした。それである日、中島の長屋でビートルズの「No where man」など数曲練習していると、ヨーロッパツアーを終えてアメリカツアーにやって来たファーイーストファミリーバンドの宮下フミオが生まれたばかりの子供(ジョデイー天空)を抱いてやってきた。それが宮の下と山の下のフミオと中を取持つ中の島で構成されるバンドSFの始まりだった。
fumio

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多くの国で通じる世界語としての英語ヴァージョンでも「わかりあえる日まで」By the day we see eye to eyeを歌った。
それがわたしたちが宇宙に発するプロジェクトだった。


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<By the day we see eye to eye.>words and music fumio yamashita

“There is a tiny planet in the spacious universe from the long time before.
We all live on it that shines blue to the core.
Wish we’d be going together forevermore.”

Eyes are different,skins are different,faces arer diffrent.
Words are different,dreams are different,nations are diffrent.

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la

 Come to me here by my side, when you need someone to love.
And you feel all alone in the end of this world.

 Talk to me how you cried,talk to me how you tried.
Hold my hand see my eyes.
I’m gonna comfort you,my friend.with this song.

 Sing across the ages, jump across the places,
Sing across the races,by the day we  see eye to eye.

 Every time we share sad tears, our pains melt like the ice,
We become full of joy for living life in this world.

 Can’t you see how we survived? can’t see how we revived?
Take my word see my way.
I’m gonna take you to my soul with this song.

 Sing across the centuries, jump across the countries,
Sing across the histries,by the day we  touch heart to heart.

 Winds no difference,  clouds no difference, lights no difference,
Skies no difference, seas no difference, lands no difference

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la


 Sing across the fires, jump across the wires ,
Sing across the desires,by the day we  walk hand in hand.


 Sing across the whole earth, jump across the voyagers,
Sing across the universe.by the day we  see eye to eye.
By the day we  smile heart to heart.

 Brothers with you, sisters with you, my friends with you.
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fumio

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奈良で催された「第15回わたぼうし音楽祭」で優勝して「第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」の日本代表として2年後の1991年8月にシンガポール国立劇場「カランシアター」で開催されたアジア太平洋わたぼうし音楽祭というフェスティバル」に出場したのだった。
そして、わたしたちは日本帰国後、あちこちのフェスティバルや コンサートにゲストとして喚ばれ楽しい忙しい日々を過ごしたのだった。。
わかりあえる日まで」By the day we see eye to eye 
スター
ネヴァーギヴアップ
まことの光などなど…。
fumio

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予言の民、ホピ族は、世界的音楽イベントに出場するTRUE WHITE BROHERたち三人(Romio Miyuki Fumio)はそれぞれに十、卍、☆のシンボルマークが見えるという。わたしは原宿竹下通りの声優とモデルのプロダクション「ホワイト・エレガンス」で活動していたのでWHITE BROHERらしい。
イントロのナレーション担当の少年Romioはバプティスト教会で洗礼を受けたので十字、リードシンガー,Myukiとわたしは卍や☆がシンボルマークになるようだ。
fumo


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t988年11月、わたしが頸椎損傷のリハビリテーションのために転院した武蔵村山病院のリハビリ病棟にある日、劇団のヒロイン、Miyukiが見舞いにやってきて、わたしがアメリカでロックミュージシャンとして活動してレコードやカセットテープを製作していた、と話すとMiyukiは「わたしにもオリジナルソングを作ってください」と言い出した。イベントや歌謡ショーなどの司会などの仕事の時、歌を歌う機会があるので自分にもオリジナルの歌を作ってほしい、というのだった。その時、Miyukiは自分が音楽祭で優勝して外国で司会を受けてオリジナルソングを歌う立場になるとは夢想だにしなかっただろう。
fumio




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1991年8月にシンガポール国立劇場「カランシアター」で第1回アジア太平洋わたぼうし音楽祭」「が開催されて、わたしたち日本代表チームは
リードシンガー、鈴木美由紀、
コーラス、山下勞美雄&富美雄の編成で参加した。
シンガポールは英語圏なので稽古では英訳して英語ヴァージョンでも歌ったのだった。
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By the day we  see eye to eye.

“There is a tiny planet in the spacious universe from the long time before.
We all live on it that shines blue to the core.
Wish we’d be going together forever more.”

Eyes are different,skins are different,faces are different.
Words are different,dreams are different,nations are different.

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la
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訳「遥かなる昔より広大な宇宙に小さな星がある。われわれが住むその星は芯まで青く輝いている。
永遠にともに過ごせたらいいのに…。」

目は違うし、肌も違うし、顔も違う。
言葉も違えば、夢も違うし、国家も違う。

ライ- ララララ、 ライ- ラララララララ、

ライ- ララララ、 ライ- ラララララララ、


 Come to me here by my side, when you need someone to love.
And you feel all alone in the end of this world.
 愛するだれかが必要なときは、わたしのそばに来て。
そしてあなたはこの世の終わりに孤独を感じる。

 Talk to me how you cried,talk to me how you tried.
Hold my hand see my eyes.
I’m gonna comfort you,my friend.with this song.
あなたがどう泣いたか、どんな努力したか話して。
わたしの手を握り、目を見て
わが友よ、この歌で慰めてあげよう。

 Sing across the ages, jump across the places,
Sing across the races,by the day we  see eye to eye.
 時代を超えて歌おう、所を飛び超えて、
人種を超えて歌おう、目と目を合わせてわかりあえる日まで。

 Every time we share sad tears, our pains melt like the ice,
We become full of joy for living life in this world.
 悲しい涙も分かち合うたびに、痛みは氷のように溶け、
この世に生きていることの喜びに満たされる。

 Can’t you see how we survived? can’t see how we revived?
Take my word see my way.
I’m gonna take you to my soul with this song.
 われわれがどうやって生き延びたか知らないの?どんなふうに再生復活したか知らないの?
わたしの言葉を受けて、わたしのやり方を見て。
あなたをこの歌でわたしのソウルに連れてゆこう。

Sing across the centuries, jump across the countries,
Sing across the histries,by the day we  touch heart to heart.
 世紀を超えて歌おう、国家を飛び越えて、
歴史を超えて歌おう、心と心が触れ合う日まで。

 Winds no difference,  clouds no difference, lights no difference,
Skies no difference, seas no difference, lands no difference

lai- la la la la, lai- la la la la, lai- la la la la la,

lai- la la la la, lai- la la la la lai- la la la la la
 風に違いはなく、雲にも違いはなく、光にも違いはなく、
空に違いはないし、海にも違いはなく、陸にも違いはない。

ライ- ララララ、 ライ- ラララララララ、

ライ- ララララ、 ライ- ラララララララ、

 Sing across the fires,
 Jump across the wires,
Sing across the desires, 

,by the day we  walk hand in hand.
 戦火を越えて歌おう。鉄条ケーブルを飛び越えて、
欲望を越えて歌おう。われわれが手をつないで歩く日まで。

 Sing across the whole earth, jump across the voyagers,
Sing across the universe,
.by the day we  see eye to eye.
By the day we  smile heart to heart.
 Brothers with you, sisters with you, my friends with you.
 全地球を越えて歌い、航行者を飛び越え、
宇宙を越えて歌おう。目と目を見合わせてわかるあえる日まで。
心と心で微笑む日まで。
 兄弟、あなたと、姉妹、あなたと、友よ、あなたと。
fumio

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