monologue
夜明けに向けて
 




ロサンジェルスのエンターメント界のある日、クラブ「エンカウンター」(Encounter)」という日系の大型クラブが開店するという噂が流れ、羅府新報やラジオその他でその店のエンターティナーのオーディションの開催が予告された。天下一武道会のようにロサンジェルス中のエンターティナーがそのオーディションに集まった。次々に得意曲をピアノやギターを弾きながら披露してゆく。わたしは日本の歌「シクラメンのかほり」をギターの弾き語りした。オーディションで選ばれたのはほとんどがピアノを弾くエンターティナーばかりだった。その頃、日本のレコード会社からデビューしていた日系アーティスト、マイク三宅もピアノの弾き語りとして店に入った。ギターの弾き語りで選ばれたのはわたしと長髪で口髭が特徴の男の二人だけだった。マイク三宅のパフォーマンスは「太陽は燃えている」が温かみのある幅広い包み込むような唱法で抜群だった。そして日系ラジオ局がクラブ「エンカウンター」の番組を作って店のエンターティナーたちの歌をラジオで流した。わたしはそれでピアニストの伴奏で「また逢う日まで」を歌った。何回かクラブ「エンカウンター」で仕事しているとマネージャーのケンさんが今度から口髭の男と一緒に仕事してくれという。エンターティナーが二人で組んで仕事するというのは聞いたことがなかったけれどOKしてその髭の男「中島茂男」と一緒にステージに上がった。わたしはアコースティックギターを弾き中島はギターアンプを持ち込みフェイズシフターなどのエフェクターにつないだエレキギターを弾いた。それがプログレッシヴロックバンドSFの相棒中島茂男(シゲさん)との出会いだった。
fumio

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「ギターバンドWajindenの2023年公演でやってきてわたしの家に寄ってくれた中島茂男シゲさんからさっき電話があった。
今、羽田にいるという。今回は墓参りに来たということだ。元気そうな声でうれしかった。」と昨日このブログに記したがそのシゲさんとの出会いについての文章を以下にコピー
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ロサンジェルスのダウンタウンに「エンカウンター(Encounter)」という大型クラブが開店するということででエンターティナーのオーディションがあった。ロサンジェルス中のピアニスト、ギタリストがオーディションに集まった。支配人ジョージ氏は、プロデュース能力に恵まれて様々なイベントを企画してさながら天下一ミュージシャン選考会の様相を呈したその様子をラジオ局のサテライトスタジオと化したクラブからリモート生中継したのだった。選ばれたのはほとんどがピアニストで結局、ギターで選ばれたのはアコースティックギターのわたしとヒゲが印象的なエレクトリックギターの中島茂男だけだった。マネージャー、ジョージ氏は最後に、君たちはふたりでやってくれといった。それが現在に続くシゲさんとわたしとの本当の出会い「エンカウンター(Encounter)だった。
fumio


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geogia  



NBCテレビ「ゴングショー」というとわたしはクラスメイトたちに勧められてサンセット通りのスタジオでオーデションを受けてホギー・カーマイケルの名曲「ジョージア・オン・マイ・マインド」を歌って出場したことがあった。
その頃、米国は黒人差別反対運動が吹き荒れて。レイ・チャールズがその運動の旗振り役と見られてかれの歌う「ジョージア・オン・マイ・マインド」を放送禁止とする圧力を州にかけられたがその後、州が謝罪して州歌にまでなったのである。
fumio


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 ロサンジェルスのダウンタウンのピコ通りにあるロサンジェルス・コンヴェンション・センター において「ジャパンフェスティバル」という大規模な日本宣伝の祭りが企画されたことがあった。この間、フランスで行われた「ジャパンエキスポ」のような催しである。企業がブースを借りて各社の最新モデルを展示する。さまざまな日本文化も展示する。その主催者から宮下富実夫に、成功するかどうかわからないのでペイを支払う予算はないけれどフェスティバルを盛り上げるためのバンド演奏の依頼が入った。「宮下のシンセとヴォーカル、中島のギター、島のキーボード、わたしのベース、」といういつもの布陣で臨み演奏した。会場は大盛況だった。それは丁度、アルバム「PROCESS」のカセットテープをリリースした頃だったので、妻はブースのひとつでそのカセットテープをそのころ流行のメディティションミュージックとして販売した。

 演奏後、日本のラジオの生放送に合わせてスタジオに急いだ。土曜の午後だったが時差の関係で日本では日曜の朝番組だという。それは作曲家、曽根幸明氏のやっていたラジオ番組で日米の回線をつないでロサンジェルスの生情報を伝えるコーナーだった。「ジャパンフェスティバル」の盛況の様子などをしばらくみんなで喋った。
この日本宣伝祭りの成功はアメリカの日本に対する意識が変化するきっかけのひとつになったように感じる。

 この「ジャパンフェスティバル」での演奏がこのメンバー4人での最後の演奏であった。以来、それぞれの進む道が交わらなくなったのである。
fumio

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わたしの世界ツアーの一環としてのアメリカ生活を描いた、続カリフォルニア・サンシャイン / 2009年08月04日「ジャパンフェスティバル」 という記事にアクセスがよくあるので以下にコピー。  ダウンタウンにあるロサンジェルス・コンヴェンション・センター において「ジャパンフェスティバル」という大規模な日本宣伝の祭りが企画されたことがあった。この間、フランスで行われた「ジャパンエキスポ」のような催しである。企業がブースを借りて各社の最新モデルを展示する。さまざまな日本文化も展示する。その主催者から宮下富実夫に、成功するかどうかわからないのでペイを支払う予算はないけれどフェスティバルを盛り上げるためのバンド演奏の依頼が入った。「宮下のシンセとヴォーカル、中島のギター、島のキーボード、わたしのベース、」といういつもの布陣で臨み宮下の新曲を演奏した。会場は大盛況だった。それは丁度、アルバム「PROCESS」のカセットテープをリリースした頃だったので、妻はブースのひとつでそのカセットテープをそのころ流行のメディティションミュージックとして販売した。

 演奏後、日本のラジオの生放送に合わせてスタジオに急いだ。土曜の午後だったが時差の関係で日本では日曜の朝番組だという。それは作曲家、曽根幸明氏のやっていたラジオ番組で日米の回線をつないでロサンジェルスの生情報を伝えるコーナーだった。「ジャパンフェスティバル」の盛況の様子などをしばらくみんなで喋った。
この日本宣伝祭りの成功はアメリカの日本に対する意識が変化するきっかけのひとつになったように感じる。

 この「ジャパンフェスティバル」での演奏がこのメンバー4人での最後の演奏であった。以来、それぞれの進む道が交わらなくなったのである。
fumio

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開店当時大繁盛していたクラブ「エンカウンター」のアナウンサーがラジオ番組の中でわたしになにか歌えと所望するのでわたしはその日の担当のピアニストにバック伴奏を頼んで尾崎紀世彦の「また逢う日まで」をライブで歌ったものだった。ところが、そのクラブ「エンカウンター」が経営不振で突然つぶれてしまったのである。それでわたしはシゲさんとふたりで働ける店を探してハリウッドのクラブ「蝶」やLAPD(ロス市警)の隣の店「燈り」やダウンタウンのリトルトーキョーの白龍飯店(インペリアルドラゴン)に一緒に出ることにしたのである。それでなんとか在米生活できたのだった。リヴィングオンアプレイヤーの主人公トミーのようにいつなにがあるかわからない。
fumio

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邂逅  


ロサンジェルスにおける天下一エンターテイナー選考会で選ばれた二人のギタリスト中島茂男とわたしはジョージ支配人にコンビを組まされたので、レパートリーとして中島の長屋でビートルズの「No where man」など数曲練習していた。するとそこにヨーロッパツアーを終えてアメリカツアーにやって来たファーイーストファミリーバンドの宮下フミオが生まれたばかりの子供(ジョデイー天空)を抱いてやってきた。今にして思えば、裏の見えないところで宮下中島山下の三人を巡り合わせるエンカウンターの経綸が働いていたのかもしれない。
fumio

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ロサンジェルスのダウンタウンに「エンカウンター(Encounter)」という大型クラブが開店するということででエンターティナーのオーディションがあった。ロサンジェルス中のピアニスト、ギタリストがオーディションに集まった。支配人ジョージ氏は、プロデュース能力に恵まれて様々なイベントを企画してさながら天下一ミュージシャン選考会の様相を呈したその様子をラジオ局のサテライトスタジオと化したクラブからリモート生中継したのだった。選ばれたのはほとんどがピアニストで結局、ギターで選ばれたのはアコースティックギターのわたしとヒゲが印象的なエレクトリックギターの中島茂男だけだった。マネージャー、ジョージ氏は最後に、君たちはふたりでやってくれといった。それが現在に続くシゲさんとわたしとの本当の出会い「エンカウンター(Encounter)だった。
fumio


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フロリダから日本公演にやって来た中島茂男(シゲさん)とあれこれ様々な曲をわたしの家でセッションをするとき、
わたしの曲ごめんなさいもセッションしてみた。
シゲさんはわたしのアコースティックギターを楽々と弾きこなしてはじめて聴くわたしの曲にぴったりのオカズをいれてくれたものだった。
鋭い音楽的感性と天才的なギターの腕は衰えていなかったのでうれしかった。
fumio



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来訪  



昨年、12月10日 日曜の朝、ロサンジェルス時代のバンドSFの相棒、中島茂男(シゲさん)が
Wajindenというフロリダ州オーランドのギターバンドのバンド公演にやって来た。わたしの家に午後2時ごろにタクシーで寄ってくれたのでしばらくセッションしたのだった。
わたしはシゲさんにバックを弾いてもらって数曲以前のレパートリーなどを歌った。宮下フミオ、中島茂男、山下フミオのSFのプロジェクトの頃がなつかしく甦った。
fumio



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米国生活中、息子を保育園に送って行って帰りの道で正面から来るマイケル・ジャクソンに似たかっこいい黒人の若者を不審に感じて避けようとしたがすれ違いざまに肩に下げていた30ドル入りのポシェットを引きちぎられたといってある朝、妻が泣きながら帰ってきた。
。わたしは朝、2時にクラブのエンターテイナーの仕事を終わって帰宅して眠っていたので起きて警察に連絡したりしたが、やってきた警官は、それで済んでよかったということだった。当時はヒルサイドストラングラーと呼ばれる凶悪連続殺人事件が起こったりして近所の多くの家の窓は格子を取り付け防犯工事していた。格子のない窓を破って入ってきて絞殺するのだった。
fumio

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わたしがハリウッドのクラブでエレキギターの相棒シゲさんと仕事が終わった時、店の外に出てギター、ベース、アンプ類を車のトランクに運び込んで一旦店に戻って店主と三人でしばらく談笑してから外に出ると車のトランクを数人の黒人がバールでこじ開けていた。幸い、まだ楽器を盗らずに逃げていった。それで翌日、修理工場へトランクの修理に行ってみてもらうとトランクの奥に穴があいて後部座席が外れていたので穴の補修と座席の嵌めこみを頼んだ。多かれ少なかれエンターテイナーはそういう目に遭っている。一時、店のドアを開けて飛び込んできたガンマンがエンターテイナーのピアノに向けて発砲する事件が流行ったことがあった。その頃はみんな戦々恐々としていた。西部劇の一場面のようだった。
fumio

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真夜中のパトロール
このところ、米国では警官の容疑者殺傷事件が人種問題などに絡めてニュースによく採り上げられているが日本より市民と現場の警官の関係が近いと感じる。毎夜同じ時間にパトロールに出て目をつけている犯罪容疑者たちの家を順に廻り窓にパトカーのヘッドライトを当てていつも見張っていることを知らせてそれ以上の犯罪を抑止する。そのルートにあるドーナツショップで一休みする。夜12時過ぎにドーナッツショップに行くとよく休憩中の警官に会った。
ある時、日系人の女性の家に歌がうまい白人女性がいるというので招ばれてギターをもってゆくと数人のパトロール警官がやってきた。毎夜その時間に警邏巡回するコースになっていていつも寄ってゆくらしい。しばらく防犯について話したあと、わたしのギターを見て演奏してほしいという。白人女性が、バーバラ・ストレイサンドが流行っている頃だったので「追憶」を歌いたいというのでギターで伴奏した。その歌はすごくうまかった。みんながわたしにも歌えというのでスリードッグナイトの「シャンバラ」を弾き語りした。真夜中のパトロールには息抜きも必要なのだろう。パトロール中、麻薬の取引現場に遭遇したりすると相手が強力な銃を持っているので警官の方が危ない。テイザーガンで銃を持っている容疑者に近づいてゆくのは勇気がいる。はたしてバイデン大統領が今回、銃規制法を通せば米国は安全になるのだろうか。残念ながら人々のマインドが西部劇時代のままではむづかしい。

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それでもそれを愛と呼べるのだろうか…。
 古い表現だがまるで万力で締め付けられるような気がした。
 背中から突然羽交い締めにあったのだ。頭の中ではジャック・ポットのようにつぎつぎにそんな冗談をしそうな友の顔が回転した。そのジャック。・ポットはついに止まって特定の像を結ぶことがなかった。わたしはふりほどこうともがいたがどうにもならない。相手の顔を覗こうとしたが見えない。時刻はそろそろ午前三時過ぎである。クラブのエンターテイナーの仕事が午前二時に終わって楽器類を片づけて店を出たのが二時半頃。ハーバー・フリーウェイからサンタモニカ・フリーウェイに乗り換える頃、おかしいなと感じた。後ろについていた車が離れない。不気味なものを感じた。スピードをあげていつものランプ(降り口)に達した。フリーウェイを降りるとさっきの車は随いてこなかった。安心して家の前に停車した。後ろの座席に置いたギターを取りだそうとした、そのときだった。だれかが突然わたしを後ろから羽交い締めしたのである。フリーウエイを降りてからも随けられていたのだ。こうなれば必死で戦うしかない。友だちの可能性を捨ててむちゃくちゃに暴れた。やっと相手の腕がゆるんだ。そのすきに回転して向き直る。対峙すると相手は見知らぬ白人であることがわかった。その頃、世間では連続強姦魔事件が取りざたされていて後ろからわたしの長髪を見て女性と勘違いして襲ってきたのかと思った。白人はおまえはキムじゃないのか、とわけのわからないことを口走りながら逃げて行った。キムという韓国人の友とまちがえて冗談をしてみたらしかった。翌日、隣のアパートの黒人女性に、二階から見ていたけれどよく助かったわね、うちの子供にもカンフーを教えてくれ、と頼まれた。わたしはカンフーは知らない、と断ったものだった。残念ながらその頃の天使の町、ロサンジェルスでは毎日、強姦や殺人事件が当たり前のように起こっていたのだ。
fumio

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天使の町、ロサンジェルスはエンジェルズ!


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