monologue
夜明けに向けて
 



《アリオン語録8》

(1)比較的素直な人でも、話し相手が力を入れて話し過ぎると、緊張緩和の為に(これは動物的な勘が働いてそうなるのだが)少し姿勢を引く場合が多い。相手を引き付けておこうとすると配慮が必要になってくる。どんな人間でも少なからず『アマノジャク』なので、相手があまり嬉しそうだと水を差したくなるのだが、文化人と呼ばれる人々は自分のインテリ性を印象付ける為に、何故か皮肉を言うのが良いと誤解しているフシがあるので、特に『アマノジャク』性が強い様だ。

 我々の話を聞く人々の中にヒネクレた感じの態度の人が居るが、それは『素直・無邪気・純粋』イコール子供っぽいと思っている為で、子供っぽい事は『知性』が低いという妙な式を使っているせいだ。素直に『いいなあ』『羨ましいなあ』と言えないのは、そう言うのが『素直』で『無邪気』で『純粋』つまり知性が低いのではないかと他人に思われると感じているからだ。特に男性の場合、社会で闘ってゆく立場にある人が多いので、『子供』っぼいのは知性が低く見えて闘いで損をすると思っている様だ。実際には、その逆で『子供』っぼい方が有利だ。

 女性の方が比較的『子供』っぽく見える事に抵抗が無いのは、社会的に闘う姿勢を待った歴史が無い為だ。我々とあなたがたの関わりの話をする時に、苦労話を7、嬉しい話を2、一般的な話を1の割合で話す方がうまくゆく。こんな操作をしなくてはならないのは、それ自体情けない話だが、やむを得ない事だと思う。

(2)魂の死とはブラック・ホールへの永遠の降下である。一つの場所に停どまり続けるのは『魂の堕落』と自殺した魂の残り修業の『清算』の状態だ。核爆弾の被爆による死は魂の死には直接つながらない。生前の強烈な想念の呪縛によって、その状態でストップ・モーションのまま身動きとれなくなるのは、魂の死ではなく、魂の浄化途上の一時停止の状態である。

 この様な状態は殆どの場合指導霊の努力と、生者側(例えば霊能者と呼ばれる人々など)の力添えによって脱する事になっている。魂の死は宣告されるものでは無い。自分で選ぶものだ。あなたがたの魂は神の体の一部である。肉体を脱いで裸になった時には神の意識と合一して、非常に高い波動での判断をする事が可能なのだ。あなたがたの人生も死後生も総てに於いて、醒めた視点で見詰め続ける『神の瞳』は自分の魂の瞳なのだ。

(3)人にはそれぞれ、その人生でするべき事があるが、それをするしないは個人の決定によるのだ。勿論、総ての人が自分の使命や義務を全うするのが望ましいが…。観念的な人間の総てが脱落者では無い。作用に対する反作用の役の人も居るのだ。現在我々とあなたがたとで実行中のプロジェクトが作用なら、バランスを取る為に反作用側の人も当然存在するのだ。ただ地球の現状を見ると(プラス・エントロピー飽和の結果としての)破滅へ向かう力の方が勝っている為に、我々の(マイナス・エントロピー方向)の創造へ向かう力の側の努力が必要なのだ。あなたがた光の子らは、そのプロジェクトの非常に大切な部門を実践しているのである。

(4)シャンバラの中枢センターでは、個人の動きを監視している。しかし総ての人という訳では無く、ある程度の精神レベルに達した人達の動きを監視しているのだ。中枢センターではある程度のレベルに達した人達同士を会わせる工夫をしたりもする。

 シャンバラの帝王は金星の王子と呼ばれた人(?)だ。彼はその体の発するオーラの為にまばゆく輝き、地球の人頬の視覚では、その姿は炎の様にしかとらえられない。宇宙連合は、シャンバラとの連係プレーを行っている。むしろ、シャンバラからの許可が無ければ働けないという方が正しいかも知れない。

 マイ・ミュート・アーテの滞在磁場は、シャンバラの作る磁場なのだ。シャンバラへと続く道は、全部で9ケ所あるが、その内の2ケ所は地球外生命体専用の道である。チベットにある道が地表に近い時には、ある高地の湖に蜃気楼が立つ。その湖は非常に奇麗な薄青緑で、ほぼ楕円系の形をしている。その他、南北極の地下、南米の山脈中、サハラ、北米にもあるが、場所はインディアンの聖なる土地(神々の台地)とだけ言っておく。

 アデプトとあなたがたが言っている人々は、地表に現出する場合は目立たない様に常人の体をする。時々、アストラル・プロジェクションという投影法を使っての対話をする。シャンバラの存在は全く人々に気付かれないという訳では無く、知られても場所の確定が出来ない為に、桃源境とか楼閣とか呼ばれて伝説に姿を遺すのみとなったのだ。しかし、近い未来にシャンバラの存在は多くの人々の識るところとなろう。これからの地球科学は可視・可触の物質科学の域を超えてゆくからだ。そうならねばならない。その為にもシャンバラは教育を続けているのだから。

(5)死後の者たちは、霊界の者と話したがる生体の人間の記憶に準じて話をする。彼らの時間感覚は我々のそれとは異なるのも一つの理由だが、主な理由は生体の人間に理解して貰えないだろうという危惧から、生前の習慣や記憶を何とか辿ろうとするのだ。彼らは修業を積み、生まれ変わるまでの間を色々なレベルの場所で過ごすか或は、1~2の場所で過ごす。これは、その霊体の生前の修業の多寡によっても異なるし、その魂のレベルによっても異なる。

(6)『声』がメッセージとして成立するには時間が懸かる。『声』の受信の為に何年も一日の殆どの時間を瞑想に費やしたり、オーラの浄化の為に、数年間に亙って誰にも接触しないという生活をしたりする事は、誰にでも出来る事では無い。『声』の意図する意味は慣れてくれば理解出来る様になるが、長い文章で受け取る事は至難の技だと言っても良いだろう。

 『声』自体には人格は無い。言わば合成されたエネルギーの声だ。一般の人に理解して貰うのは困難な事だろうが、メッセージを長文で連日受信し続けるのは、普通の日常生活でのエネルギーの使い方を応用するだけでは、不可能な事だ。

(7)本当の自由とは、とらわれない事そして、こだわらない事である。とらわれるというのは、外部からの働き掛けで自分自身が拘束されて不自由だと感じる事。こだわるというのは内部からの働き掛けで自分以外の何かを拘束したい為に不自由だと感じる事。
人は一般的に外部から拘束されることには敏感で、自由と言うと外部抑圧からの解放という風に解釈するが、自分自身の内部からの拘束である『こだわり』に関しては鈍感である場合が多い。

 本来の自由とは内在するものであり、内側から外側へ働き掛けるタイプのエネルギーなので《何物にもこだわらない事》が本当の自由への働き掛けの第一歩となる。自分自身が自分以外の何かを拘束したいと思わなくなれば、拘束されることも無い。

(8)愛なくして苦しみも悲しみも乗り越えられない
愛とは総てを包含するもの
愛とは芸術そのもの
愛とは人生そのもの
愛とは生命そのもの
我々の愛の表現は、あなたがたの存在だ
覚えておいて欲しい、あなたがたの働きは小さく見えても
確実に人間一人一人の心の中に愛の灯をともす。


**************************

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )