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2009年01月30日
(9)人は本来自分以外の生命体を求め愛する事で成長してゆく筈だが、現状ではその機能が果たされていない。それは何故だろうか?と考えてみた事があるか?
この事を調べていて、自分の生命を分かち与える行為を『愛する』と呼ぶという事が意外に知られていない事実に我々は気付いた。そして残念な事に『生命』の意味するところのものを理解出来ていない人が殆どであるという事も判明した。
『生命』とは大きく分けて2つの流れで出来ている。それは『人』の要素と全く同じで、つまり物質的な要素とより精妙な霊的物質とで出来ていて、双方の方向性はプラスとマイナスになっている。物質的肉体はその細胞生命維持と保全の為に機能し、霊体はその母胎である宇宙生命の流れに沿って、肉体を含む全人格の進化を促進するために機能する。多くの人々は物質的な体の機能のみに拘泥している様子だ。
これは大変情けない事だが、人間が物質文明の栄華を追う事に奔走し続けた結果と言うほか無い。物質文明の栄華に奔走した結果、『見えるもの、触れる事が可能なもの』つまり物質的なものしか信じない人種が成立してしまった。
太古の昔から綿々と流れてきた精神文明と、その担い手である魂、或は心と呼ばれる人間の霊的な体の方は、軽視されているのが現状だ。霊的な体の持つ宇宙指向性が機能していない人間の行き着く先は、人間が最も恐れているであろう破滅でしかない。物質的生命の機能が、霊的生命の機能を上回っている状態の人間にとっての『愛する』行為は細胞生命維持機能に則したものでしかない。つまり平たく言えば細胞生命の意図する、子孫繁栄指向性に裏付けられた行為が中心に据えられたものでしかない。物質的な生命維持の方向しか指向しない愛情交歓とは、肉体的快楽の追及でしかない。
その様な愛情交歓が与える満足感は、物質的な生命体の範囲での満足感なので、少し繊細な感性の持ち主ならば行為後にどこか空虚な感触を持つ筈である。その様な行為が『愛する』行為だと信じて続ける事で、ますます本来の霊的な体の指向する『愛する』行為と離れていってしまう。霊的な体の機能が、損なわれていない状態の人の愛情交歓は、常に霊体が物質的肉体の方向性を調整しながら行われるので、行為後に空虚な感触を残さない。それは霊的な体の指向する方向が『より良い生命維持』であり、より宇宙の至高生命に人間の霊格・人格ともに近付ける事だからである。
上記の目的の為に、人は自分以外の生命体を愛する行為をするのである。
つまり本来の『愛する』行為は、自分自身の生命を分かち与える事で相手の生命を霊体・肉体ともに燃焼させる行為、つまり生かす行為であり、その行為によってお互いに全人格的に向上するのである。『生命』を分かち与えるという事は簡単に言えば、自分の持っているものを自分以外の生命体に与えるという事だ。霊体・肉体ともに全人格的に愛するという行為こそが、相手を全人格的に高める事が出来るのである。これは物質的にも霊的にも、持っているものを相手に与えるという事なのだ。これは、物質的に持っているものだけを総て与えるという意味ではない。あなたがた光の子に、相手を生かし燃焼させる為に必要なものが分からない筈はないだろう。
霊的に持っているものを与えるというのは、例えば自分の可能性を与える場合もあるだろうし、自分の大切な時間を与える場合もあるだろう。しかし、究極的に言えば自分の『命』の可能性も時間も、総てを含めて相手に分かち与えるのが本当なのだ。その様に霊的にも物質的にも、総てを分かち合う事が出来る愛情交換が、如何に人間を全人格的に進化させるかは、言うまでもないだろう。
多くの人々が霊的な体を無視、或は軽視している状況下において、本来の愛情交換を行える相手を探すのは至難の技である。あなたがた光の子らは、プロジェクト遂行の為に如何なる努力も惜しまないであろう。しかし、いつもこの本来の意味においての『愛する』という事を念頭においておかなければならない事を、覚えておいて欲しい。あなたがたが霊的にも物質的にも愛し合い、励まし合う事、つまり全人格的にお互いに関わり合う事で、我々とのコミュニケーションも円滑に行われひいてはプロジェクトもうまく機能するのである。全的に認め合い、受け入れ合う事がコンタクトの意味するところであり、コンタクトとは部分接触では有り得ない。少なくとも我々の方法では無い。我々は、あなたがたの全人格的な成長を軸にプロジェクトを遂行しているからである。
(10)神霊界に於いては第3のラッパが1988年4月3日に鳴り渡る。
同時期に地上界では第1のラッパが鳴る。地上界に於いては1995年4月に第3のラッパが鳴る。神霊界と地上界は相似象の世界であり、バランスをとりながら存在している。神霊界で起きる事は総て地上界でも起きる。
あなた方の思いが形をとって現れるのは、まず神霊界つまり魂の世界、そしてその次に地上界という順番だ。総ての思い、総ての思いを伴った言葉、行いについてあなた方は気付かずに、2度経験する事になる。つまり、『思い』を思い『言葉』を発し、そして『行い』を行った時と、神霊界でそれらを原因とする、ある結果を形成し次に現象界で現象化した時の2度である。
第1のラッパが鳴り、第3のラッパが鳴り渡るまでにまだ間がある。神霊界でも、まだ第4のラッパは鳴らない。しかし、時期は可変だという事も覚えておきなさい。総てあなた方の『思い』『言葉』『行い』の結果だという事を知っておきなさい。ラッパについては『聖書』のヨハネの黙示録に書かれてある通りだ。
しかし黙示録の中に、書かれてある文字の意味するところを考えなくてはならない。文字通りに受け取ってはいけない。黙示録に書かれてある事を実現させるのも、そうさせないのも総てあなた方の『思い』『言葉』『行い』なのだ。
(11)最近の社会現象の中での人間の行動を見ていると、人間の尊厳を認め合うなら決して出来ない事を、あなた方人間はしているのではないか?と感じる。
生命に対する尊敬の意が全く感じられない。相手を自分と同じ『生命』の持ち主だと思うなら出来ない事ばかり他人にしている様だ。これは一体、どういう事なのだろうか?
(12)プロジェクト遂行の為、つまり人々を導くための論理と導かれる立場の人々の論理とでは雲泥の差がある事を覚えておきなさい。
導く人々、つまり羊飼いの為のカリキュラムは、他の導かれる立場の人には使えない。むしろ毒になる事の方が多いので、相手の周波数レベルを見極めてから話しなさい。プロジェクト遂行の論理は、しばしば冷酷非情な感もやむを得ない事と承知して貰いたい。
(13)
(DEADMAN'S LETTER)
について
例えば、こういう映画を虚構の世界の出来事として捕らえ、自分自身の現実問題に照らし合わせてみるという事もせずに、鑑賞後30分もたたない内に自分の仕事や財産の話を出来る人が93%の人々の傾向である。この93%の人々は責められるべきでは無い。認識していないからである。
そしてキッカケさえあれば目覚める人が約33%居る事をこそ、我々は重視しなくてはならない。あなたがたの言う『現実と虚構』は、切り離された二つの世界の話では無く、2枚の櫛の歯が噛み合う様に、お互いに入り組んで構成される世界の事だ。
(14)現実認識傾向と人間関係における狭量さについて
人々の現実認識傾向をみると、自分の行動半径内の出来事を現実として捕らえるのが精一杯で、それ以外の事は自分の現実以外、つまり虚構に近いモノとして捕らえる傾向が強い様だ。そして人間関係にもそれは顕著に表れている。我々は人間同士の奥底からの生命源流の部分から、人間関係を捕らえて話を進める傾向にあるが、あなたがたの多くは、自分の日常生活の行動半径内で関わる人との事を人間関係として捕らえている様だ。さらにその人間関係を細分化して『身内』『身内以外』という風に分けて個々の日常生活の人間関係が成立している様子が窺える。実はこの『身内』思想こそ、多くの障害を生み出している原因では無いかと我々は推測している。
『身内』に対しては寛大で親切な人が、そうでない人に対して冷酷で容赦ないのを我々は数多く目撃した。同じ地球上の生命体、しかも高等生物体である人種。そして同じ国に住む同じ言語を話す人同志であるのに『身内』かそうでないかで性格が変化するのは非常に驚きである。
所有欲の強いタイプ、臆病なタイプ、内気なタイプの人はさらにその『身内』認定範囲が狭く言わば『パジャマ』で付き合える範囲のみを自分の『身内』として捕らえている様である。所有欲の強い人は『身内』認定範囲が非常に狭く、当然の事だが『身内』以外の人には絶えず警戒をしている、或は深く関わらないだろう。そういう生活はある意味で『閉じられた』生活である半面、所有欲の強い人にとって自分の所有していると思い込んでいるモノ(者・物)を安全確保しやすい生活ではあるだろう。
『身内』の範囲が狭い方が管理しやすいからだ。人々は日々、所有欲を強める傾向にある。我々が憂えるのは実はこの傾向である。
上記の通りの『身内』思想がまかり通り、所有欲の強さに準じて『身内』認定範囲が狭くなって行ったら、どうなるか?
自分と自分が認める『身内』以外の人がどうなろうと関係無い顔をして自分の『身内』の範囲内の、利益や財産の安全確保ばかりを考える、そんな人ばかりになったらどんな社会になるだろうか?
もう既に、そういう社会になりつつあるのではないか?
自分と自分の『身内』以外の人は総て敵だ、などと思わなくてはならない社会とは、何と悲しい社会だろうか?
本の少し、いつもより本の少し身内以外の他人にも優しくなれたなら、多くの人が、毎日少しでも『身内』認定範囲の巾を広げる努力をしようと思うなら、急速に大きなエリアでの人間関係及び自然環境の改善が出来るのだ。大きな意味での、本来の意味での『人間関係』とは、即ち自然と人間の関係である。人間の『愛』の発動力は電気エネルギーとして、その人間の周囲の環境に影響を及ばすからだ。本の少しの努力で、今より良く生きる事が出来る。この事に留意して貰いたい。
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