1978年1月の小雨降る日、授業が終わってオリンピック通りを東に走ってウェスターン通りとの交差点の信号が黄色になり左にターンしているとき、信号が変わる前に渡ろうとスピードをあげて突っ込んできた車と衝突した。わたしたちのフォード・ピントーは数回回転して止まった。数週間後に結婚を控えたわたしと妻は少しの間気絶した。バス停で待っていた人々が一斉に集まってくる。それはほとんどがアフリカ系アメリカ人(黒人)だった。身動きできずボーとしたまま、ただ親切な人たちだと感謝した。すぐに救急車がやってきて運び込まれたUSCジェネラルホスピタルで診察を受けると、額をフロントガラスにぶつけた妻は目の上が膨れ、わたしも額の傷だけで他に異常がなく、安心した。翌日、ジャンクヤードに車を見に行くと完全にクラッシュして使いものにならないことがわかった。中にあったギターその他の仕事道具を調べるとだれかがすでに持っていってしまっていた。日本語の譜面まで盗らなくても、と思った。妻は身につけていた財布をとられて車の中を何度探しても見つからなかった。だれかが介抱しているふりをしてとったらしい。そのころのわたしたちは気絶している間も気を抜けない、ということをまだ知らなかった。そういう国なのだ。そこではそういうつもりで暮らさなければならない。日本のような安全で倫理観の強い国とは違いが多い。同じつもりで批判してもピントがずれてしまう。
fumio
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