日本のロック、ソウルの先駆けだった加賀テツヤはギター子守唄でデビューしたがウィルソン・ピケットのマスタング サリーをライヴ演奏している。マスタングサリーとは人気車種65年フォードマスタングをひたすら自慢する歌。
わが友上田好久の話では、オープンカーは特に人気があってガソリンスタンドで給油中に売ってくれと言われるということだった。
テツヤはソウルミュージックに思い入れが深かったのだ。
参考のためにソウル音楽に関しての以前のわたしのブログ記事を以下にコピーしておく。 テネシー州メンフィスの南東200キロ、マッスルショールズという町のコットン畑の真中にカントリーミュージシャン、リック・ホールがフェィム・スタジオ(FAME STUDIO)を作った。まだ南部では人種差別が激しい時代、白人であるリックは周囲の非難におかまいなく黒人歌手、パーシー・スレッジ(Percy Sledge)のレコーディングをした。その曲 When a Man Loves A Woman は全米1位に輝きフェィム・スタジオの名は全米に轟く。
ある日、飛行場に降り立ったウィルソン・ピケットは迎えにきたリックが、「すごいファンキィなレコードを作ろうぜ」というのを聞いて「この大男は何者なんだ。白人のくせにソウルがわかるのか」と不審に思い、まわりの畑でのコットンつみ取り作業を横目に見ながらスタジオに入る。その時のセッションで
「マスタング・サリー」 「ファンキー・ブロード・ウェィ」 「ダンス天国」 などソウルの歴史に残る名曲が録音され発売された。それは白人と黒人の共同作業だった。白人ミュージシャンのバックでもソウルミュージックが生まれることに人々は考え方を変えざるをえなくなってしまう。以来、フェィム・スタジオはソウル・ミュージックのメッカのようにもてはやされることになり田舎町「マッスルショールズ」の名もソウルファンには聖地のように記憶される。見えないところで時代は確実に変わっていたのである。
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fumio
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