1965年、男性向け月刊ファッション雑誌「MEN'S CLUB」の募集欄で龍谷大学生加藤和彦がフォークグループ結成を呼びかけ、下京区在住の北山修が妹の自転車で七条通りを東に走り交差点で右に折れて南下して伏見区深草の加藤の自宅を訪ねた。それがフォーククルセダーズの始まりだったのである。
北山修の自宅の北にはジローズの杉田二郎の自宅の金光教島原教会があった。わたしはその近くの島原裏片町に住み高校三年になっていた。北山修の自宅の東の酒屋からのちに「ケメコの歌」でダーツが出てきた。中京区の北野中学校の同級生たちがコメディアン、ジェリー・ルイスの息子のバンド「ゲイリーとプレイボーイズ」の名前をもじった「サリーとプレイボーイズ」を結成してライブ喫茶「ナンバ一番」でグループサウンドの先駆けリンドアンドリンダースに名付けられた「ファニーズ」から東京で「タイガース」へと変貌していった。京都の呉服屋のボンボンの加賀テツヤもリンドアンドリンダースに加入し、その頃の京都には右を見ても左を見てもアマチュアとプロの境ぐらいのバンドがうろうろしていた。演歌界でも西陣出身の都はるみが64年にデビューしていた。運とやる気と才能の量でその後の運命が左右されていった。
そして、わたしが高校を卒業して洋楽にのめりこんでいた頃、京都駅前の「丸物(まるぶつ)」というデパートの屋上に海外ニュースのコーナーがあって、ミッキー・カーチスとサムライというバンドが海外ツアーをしている、という記事がよくあったので憧れた。外国で音楽のツアーをするというのはすごいことのように思ったのだった。
fumio
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