monologue
夜明けに向けて
 



  
  60年代の締めくくりとしてウッドストック・フェスティバル(Woodstock Music and Art Festival)が1969年8月115日(金)から17日(日)までの3日間、米国ニューヨーク州サリバン郡ベセルのマックス・ヤスガ農場で開催された。

 それは1967年1月14日、サンフラシスコ、ゴールデンゲート・パークで始まったカウンター・カルチャー、人間性回復のための集会「Human be-in(ヒューマンビーイン」の集大成であった。「愛と平和」のスローガンの下の大規模なロック、フォーク・コンサートで約50万人が集い楽しんだ。

 翌年1970年その模様を映したドキュメンタリー映画『ウッドストック』がリッチー・ヘィヴンス(Richie Havens)の歌 Freedomで始まったとき、歌詞が途中、黒人霊歌 「時には母のない子のように」 なのでなんだかおかしく感じたものだった。
 
 それからすぐ自分もその会場にいるような感覚で食い入るように画面に見入った。そのころのわたしにはどれも素晴らしいパフォーマンスで憧れた。並みいる有名ミュージシャンの中で特に印象に残ったのはジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌"The Star Spangled Buner" の演奏だった。当時たけなわであったベトナム戦争の爆撃機の爆音爆弾投下や逃げまどう人々の悲鳴をエレクトリック・ギターで描いてよくあんな音が出ると本当にびっくりした。とにもかくにもこのフェスティバルの成功が60年代の音楽を光輝かせたのである。
fumio

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 1958年米国スタンフォード大学の文学創作プログラムに登録したケン・キージー(Ken Kesey )という名の優秀な学生がいた。
翌年かれはCIAの出資によりメンロ・パーク・ヴェテランズ病院( Menlo Park Veterans Hospital)で行われる「MKULTRAプロジェクト」という研究に参加した。
それはLSD,サイロシビン( psilocybin)メスカリン( mescaline)コケイン( ocaine)など精神に作用する薬の人への影響の研究であった。かれはその後、個人的にもモルモットを使って研究し1962年に『カッコーの巣の上で』 (One Flew Over the Cuckoo's Nest)という小説を発表した。小説はヒットし、かれはサンフランシスコへ移住した。そこでかれケンは知り合いのバンド、ワーロックス(Warlocks)後のグレィトフル・デッド(the Grateful Dead)と参加費1ドルで派手に塗ったバスで「アシッド・テスト(Acid Tests)」をしてまわった。LSDで人々の精神を拡張するのが目的だった。65年にビートルズのリンゴ・スターとLSDを一緒にとったのもケンだといわれている。そうするとあの「トゥマーロー・ネヴァー・ノウズ」 の幻惑的な音にもケンの影響があったともいえることになってしまう。

 そしてそれが1967年1月14日サンフラシスコ、ゴールデンゲート・パークの「Human be-in(ヒューマンビーイン」へとつながったのである。「愛と平和」というスローガンは何時の時代でも素晴らしいものだがかれらの手にしていた武器がドラッグと花とセックスであったのがおかしい。CIAが関与した研究から始まったドラッグカルチャー、全く体制を倒せるはずのない武器を手にして反体制を唱え当然のように消え去った運動。その裏にはやはり体制権力組織が動いていた。
fumio


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私的カウントダウンアルバム「水面に書いた物語 」 収録曲の今週のアクセス聴取ランキング
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5月29日(金)~6月5日(金)
ヒット数:1,132件中
    
順位( )内は前週の順位< >内は前々週の順位 

第1位(1)<3>ごめんなさい
第2位(2)<1>あやかしのまち
第3位(3)<2>水面に書いた物語
第4位(7)<4>ときめきFALL IN LOVE
第5位(4)<8>マイ・スィート・ライフ
第6位(5)<6>軽々しく愛を口にしないで
第7位(16)<14>素顔のマスカレード
第8位(6)<5>ラスト・ランデヴー
第9位(14)<11>それってⅨじゃない
第10位(9)<9>女優(スター)
第11位(10)<7>オーロラの町から
第12位(15)<13>Sentimentallady”M”
第13位(11)<17>恋すれば魔女
第14位(18)<16>しあわせになれる
第15位(8)<10>はるかなるメロディ
第16位(13)<12>わかりあえる日まで
第17位(17)<15>まことのひかり
第18位(12)<18>Stay with me
第19位(19)<19>NEVER GIVE UP!

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 今週は1位2位3位がスクラムを組んで先週と変わっていない。目立つのは素顔のマスカレード 先日 の記事に採り上げたので上がったことくらい。ご愛聴感謝。
fumio








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 米国シカゴにチェス・レコード (Chess Records)というブルース、リズム&ブルース系のレコード・レーベルがある。マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリー、エタ・ジェイムズなどが在籍し、そこのチェス スタジオでレコーディングしているのでイギリスのミュージシャンたちもその音を求めてレコーディングに来るようになった。ローリングストーンズもセカンドアルバムを録音して成功した。スタジオにはそれぞれ独特の音がある。電子エコーその他の機械エコー以前の時代はエコーチェンバーというエコー用の箱というか部屋によってエコーの効きが違うのでスタジオ探しにはエコーチェンバーをまずチェックしなければいけなかった。エンジニアによっても音が違うのでミュージシャンたちは好みの音が録れるスタジオを捜すのである。

 わたしは「カリフォルニア・サンシャイン」のシングルのマスターリング(レコードの原盤を作る作業)に当時ロサンジェルスで一番評判の良かった「マスターリング・ラボ」というスタジオに予約を入れようとした。すると「今週一杯は無理です。ピンク・フロイドのディヴィッド・ギルモアが個人アルバムのマスターリングでずっとリザーブしてますから」といわれた。それで一週間待った。

 スタジオに入ってどんなアンプを使っているのかと訊くと50ワットの手作りアンプだという。100ワット以下ということに驚いた。ひとりはいかにも職人的な技術者でひとりはなんでも楽しく話してくれるフランクなオジサンだった。スタジオに一番大切なのは大容量のアンプや最新機器ではなくエンジニアの腕と耳らしかった。
fumio

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 1967年1月14日サンフラシスコ、ゴールデンゲート・パークは2万人の人々で溢れかえっていた。マリファナの煙でまわりはみえず足の踏み場もなかった。それは「Human be-in(ヒューマンビーイン」あるいは「Gathering of the tribes(部族集会)」と呼ばれるカウンターカルチャー運動、反体制集会だった。その日がサイケデリックの時代の始まりだった。その日を境に全米に「愛と平和」を合い言葉とする若者たちが溢れることになる。それはハイト・アシュベリー(Haight-Ashbury)地区に集まるヒッピーがしかけたため ハイト・アシュベリーはカウンター・カルチャーの中心地として全米に知られる。音楽面では多くのサイケデリックバンドがデビューし、スコット・マッケンジー(Scott McKenzie)の歌う San Franciscoは世界的に大ヒットして世界にサンフランシスコで起きているムーヴメントの熱さを伝えた。かれらは体制を信じずドラッグ(LSDなど)や愛、セックスによって平和を希求した。燎原の火の如く地球全体をその運動が包むかに見えたが地に足がついていないためか70年代までももたなかった。髪に花を飾るフラワー・ムーヴメントもやはり一時のあだ花でしかなかった。

 とはいえとにもかくにも1967年1月14日は今後なにかの機会にくり返し思い出される日になりそうな気がするのだ。はたしてどうだろうか…。
fumio

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 このところの洋楽史上の重要バンドやギタリストの記事に衆知のこととしてBlues(ブルーズ)を扱っているが意味がわかっているようでわからない方がいるかもしれないので簡単に説明しておく。

 Bluesは日本では「ブルース」と発音されているが「ブルーズ」と発音して日本の歌謡曲で悲しげな歌のジャンルのひとつの「ブルース」やダンスの種類ではない。それでも書くときは「ブルーズ」と書くと読む人がおかしく感じるので「ブルース」と書くことになるのである。

 米国のアフリカ系アメリカ人が日々の生活の悲しみ辛さを歌い演奏し始めたBluesはスイングやシャッフルのリズムに乗って文章でいえば「起承転結」そして音楽のコードを示すローマ数字では「Ⅰ Ⅳ Ⅴ7 Ⅰ」、一般的なCのコードネームで書けば「CFG7C」を12小節で演奏する音楽形式を指すのである。興味がある方は詳しくはブルースで確認していただきたい。
fumio

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 1938年8月16日ミシシッピ州グリーンウッドで27才のブルースマンが命を落とした。その死因は安酒場の女といちゃついてその夫にウイスキーに猛毒ストリキニーネを盛られての毒殺、あるいは刺殺というものであった。しかし、伝説は悪魔に魂を奪われたのだという。

 1930年代、米国ミシシッピ州の田舎、ドッカリィ農園(Dockery Plantation)近くの十字路 で真夜中に若い黒人がギターを弾いていた。

 かれは、1911年5月8日にミシシッピ州ヘイズルハースト(Hazlehurst)で母親ジュリア・ドッズ(Julia Major Dodds)と父親ノア・ジョンソン( Noah Johnson)の間に生まれロバートと名付けられた。そのとき、母ジュリアは地主チャールズ・ドッズ(Charles Dodds)の妻で10人の子持ちだったので不倫事件となり町から親子で追いだされた。かれは移転をくり返し姓は親の都合で何度か変わったが成長して本来の父の姓を継ぎロバート・ジョンソン(Robert Johnson)と名乗った。幼い頃から音楽好きでハーモニカや口琴(jaw harp)を弾いた。音楽がかれの一番の友だったのだ。

 ロバートは若くして1929年2月、16歳のヴァージニア・トラヴィス(Virginia Travis)と結婚したが翌1930年、かの女はまだ成熟していなかったためか出産してすぐ子供とともに亡くなる。

 ロバートはわが身に重なる不幸を嘆き好きなブルースに打ち込んだ。ブルースの神髄を会得したいと日夜稽古を続け祈った。そんなある日、ドッカリィ農園の十字路に真夜中にギターを持ってくるようにと告げられたのである。

その十字路で真夜中に会ったでかい黒人がかれのギターをとり、まず調弦(チューニング)した。それからブルースギターの超絶技法を伝授した。それはなんと悪魔でかれの魂と引き替えだったという。ロバートは以来恐ろしいほどのギター弾きと噂されるようになる。

 噂を聞いたブランズウイックレコードは1936年11月23日、ジョンソンをテキサス州サンアントニオに喚びガンターホテル( Gunter Hotel)の部屋を仮スタジオにして3日間で16曲レコーディングし、翌1937年6月にダラスでの13曲と計29曲を録音した。それががかれのクロス・ロード伝説の遺産となったのである。

 かれロバート・ジョンソンは"Me And The Devil" で,こんな風に歌う。
 "Early this morning when you knocked upon my door/Early this morning, umb, when you knocked upon my door/And I said, 'Hello, Satan, I believe it's time to go,'" before leading into "You may bury my body down by the highway side/You may bury my body, uumh, down by the highway side/So my old evil spirit can catch a Greyhound bus and ride."(英詞はウイキペディアより転載)「今朝早くおまえはドアを叩いた。おまえがドアを叩いたとき、おいらは、やあ、サタン、行くときが来たな、と言った。おいらの身体をハイウエイ脇に埋めていいよ、と導く前に、おいらの身体をハイウエイ脇に埋めていいよ、そしたらおいらの古びた悪霊はグレイハウンド・バスをつかまえて乗り込めるさ」

かれは本当にサタンに魂を売ったのだろうか。あなたもまたなにかの世界で一番になれるなら売るだろうか?27才を過ぎていれば賞味期限切れで売れないのかも…。
fumio

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