海外出張だパソコンの故障だ風邪だとバタバタしていて、心身疲れがたまるとどうしても時事ネタを書く余裕がなくなってしまう。今も風邪のため休養中だが、立花御大の教育基本法に関するコラムとなれば紹介せずにはいられない。
立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」
第90回 踏みにじられた教育基本法審議 安倍アナクロ強権政治の誕生
11月15日、与党の単独強行採決で、教育基本法改正案が衆院特別委員会を通過した。与党は16日に衆院本会議に同法案を上程。形式的な審議をした上、採決まで一気にやってしまった。法案はすでに参院に送付されている。
それほどバタバタ大騒ぎでやってしまったのは、12月15日で会期が切れてしまう今国会の会期中に、同法を成立させるためである。よく知られているように、衆院を通過したあと、1カ月の時間が経過すれば、参院の審議内容がどうあれ、法案は自然成立の運びになる。
これこそ1960年5月19日・20日の安保国会で、岸信介がやったことと同じである。
(中略)
国会は、与党と野党、議案の賛成者と反対者が議論を尽くすところである。その議論が滞りなく行われることにこそ、民主主義の根幹がある。
それを問答無用で審議を打ち切り、直ちに強行採決に走ったとあっては、民主主義のルールの完全無視である。しかも、衆院本会議に上程されてからがまたひどい。野党がボイコットしたから、実質審議ゼロなのである。
安倍内閣は、教育基本法を今国会の最重要法案と位置づけてきたが、最重要法案を審議ゼロで通してしまってよいのだろうか。
野党がなぜこの法案の審議をボイコットしたのかというと、安倍内閣が衆院どころか参院でもこの法案をまともに審議しようとせず、実質審議ゼロのまま通してしまう(要するに自然成立を待つということ)が明らかだったからだ。
(中略)
今回は、野党の反対がおとなしかったため、政府側も警官隊導入などの暴力的手段に訴えることはなかった。しかし、やったことは同じである。
要するに野党側との実質的な審議に応じることなしに、ひたすら多数の暴力をもって、強行採決に次ぐ強行採決で押し切っていったのである。このプロセスのどこに民主主義があるというのか。
強行採決にいたる以前の、一見もっともらしい審議が積み重ねられていたかに見える部分についても、地方公聴会のプロセスで、実は政府側がお金をバラまき、ヤラセの質問をさせるなどしていたことが国会でバクロされた。民意を直接に問う民主的な手続きだったはずの公聴会が、民主主義とはほど遠い、見せかけだけの民主主義で、実は官製のサル芝居プロセスだったことがバラされてしまったのである。
その問題が国会の場で追及されようとしたまさにそのときに、15日の強行採決に次ぐ、強行採決となったわけだ。
安部首相が尊敬する岸信介か首相を務めていた60年安保の頃と違って、テレビや全国紙も去勢されているからなぁ……。「やらせ問題」にしたって、もっと教育基本法の審議と関連づけて問題視すべきだった。
実質審議ゼロの強行採決など、近代民主国家であってはならないことである。安保国会のときのおじいちゃんの独断強行路線こそ、戦後日本を正しい路線に導いた、というような歴史の錯誤的認識の上に、自己の政治決断をのせているようでは、安倍首相はただの強権政治家にしかなれないだろう。
民主主義の時代において、正しい政治家の道は、あくまで民主主義のルールに従って、反対派とも議論を尽くす政治家の道である。
60年安保時代に強硬路線で突っ走った岸信介の姿は、民主主義時代のモデルには全くなりえない古い時代にのみありえた化石的強権政治家の姿である。
いま「第二の岸信介」を目指して走りはじめたかにみえる安倍首相の姿は、見かけ上の若さに全く似合わぬアナクロ政治家としかいいようがない。
しかし、それにつけても今回つくづく感じたことは、05年体制の恐ろしさである。自民党と公明党の与党が圧倒的多数を保持する05年体制のもとで、安倍首相のような強権政治に目覚めた人間がトップに座ると、これからこれと似たような実質審議なしの強行採決路線で、国家の大事が次々に決めていかれることになるのだろうか。
まったく。そして、小泉政権に既成の支持基盤のかなりをぶっ壊されてしまった今(それはそれで意味はあると思うのだが)は自民党より公明党の方が集票能力では上だろう。信仰よりも理性や知性の方が勝っている自分にはよくわからんのだが、公明党の支持基盤である某宗教団体の信者の多くはこの格差社会でむしろ苦労している方の層ではないのだろうか。それにも関わらず、律儀に票集めをして、05年体制を維持することに貢献している……うーん、不可解。
そう言えば愛読しているマンガのひとつ惣領冬実『チェーザレ』の第2巻に、16才のチェーザレ・ボルジアがルネッサンス時代のドメニコ会を批判して、次のように言う場面があった。
「だが本当に忌々しき問題はこの現状が彼ら(注・貧民たち)の招いたものではなく教会――ドメニコ会によって作られたものということだ
この地域の貧者を悲惨な状況に追い込んでいるのはドメニコ会の連中だ
奴らは神の名を巧妙に利用して貧者を救う術を隠している
本当に彼らを救済しようと思うなら残飯を与えても意味はない
本当に与えねばならないのは働く場であり技術を身につけさせることだ
だが連中はそれをしようとはしない
貧民が豊かになれば人々は地獄を信じなくなる
地獄を恐れるからこそ神に救いを求めるのだ
だから教会はその力を発揮できる
つまり教会には恐れ苦しむ人間が不可欠なのだろうな……
彼らから光ある未来を取り上げ与える物はたった一欠片のパンのみ
そして祈れと言う
祈れば救われると…
神に祈ることで救われるなら何故あの者達は毎夜餓えて残飯を漁らねばならぬのだ
何故母親が生まれたばかりの我が子を水に沈め殺さねばならぬのだ
それを見ても奴らはただ祈れと言う
祈れば腹がふくれると言うのか
祈れば温かな寝床で眠れると言うのか」
この直後に過激な怒りの言葉がつくのだが、そこは割愛(苦笑)。
まさしく、今の日本にも通じる批判の声ではないか。