再度、日本航空の話題です。
新聞社のインターネット記事を見ると、何社も、JAL社員が街に繰り出しての販促活動している記事を写真付きで伝えています。
「今は皆様の税金から給料を頂いている状態なので、一日も早い会社更生を目指し、仲間と頑張ります」と、お涙頂戴のコメントをのせています。(asahi.com 2010-01-25記事より)
飛行機やCAとかは、やはり華やかで絵になるし、「判官びいき」、つまり天下り社長、政治家、霞ヶ関の役人などの悪漢にいじめられて来たけなげな現場の社員という構図です。
文字どおり「ナショナルフラッグ」であった約40年まえの写真を友人から貸してもらいました。機種はDC-8。米国のダグラス社製でした。
日本からフランスに派遣される留学生の出発記念写真です。当時は羽田から出発しました。まだ成田はありません。
この飛行機はジェットエンジンですが、航続距離は現在より短くて、ロンドンやパリにいく場合は米国アラスカのアンカレッジで給油し、北極の上空を飛行しました。ニューヨークに飛ぶときも、アンカレッジで給油。円形ドーナッツのようなアンカレッジ空港のターミナルビルで、知人に出会うこともよくありました。「おお、○○くん。どちらへ?」「NYからの帰路、君は?」「ロンドンに行くところ」などと。
ビル内の免税品で時計宝石や洋酒を日本語で販売する日系や朝鮮系のおばさんたち。つい、醤油あじのダシの香りに釣られて高価な(おいしくはない)特製うどんを食べました。
この写真は、マークが鶴丸となったあとのDC-8です。
DC-8は乗客定員も少なく、スチュワーデスの人数も多くはなかったので、こじんまりしたサービスで快適でした。当時の乗務員は四大卒女性にとって競争率のとても高い就職さきでした。
ある時期からソ連は外貨獲得のためにシベリア空路を西側航空会社に開放したので、欧州航路は、アンカレッジには行かずにモスクワで給油することになりました。モスクワ空港ターミナルビルには、外貨専門のお土産店「ベリョースカ」(白樺)が出来て、帰路にはウォッカ、キャビア、マトリョーシカ(入れ子のロシアこけし)、安物の万年筆などを買いました。
空港ビルの中はどこも暗くて陰気でした。男性用トイレの小用器の位置がとても高くて小柄な日本人は背伸びして用をたしました。
1957年に、米国より早く人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したソビエト連邦。そしてその政治原理である共産主義に、1960年代や70年代の日本の若者の多くが「あこがれ」ました。
でも、暗いモスクワ空港のターミナルビルとそこで働いている公務員と店員の態度を見て、その国の将来と共産主義に幻滅を覚えました。
(2010-01-27追記)日本発欧州航路にモスクワ経由が開設されても、アンカレッジ経由は相当期間残っていました。現地の到着時間の都合などで、どちらかを選んだと思います。その内に、もっと長距離を一気に飛べる改良や新機種が出てきて、アンカレッジもモスクワも欧州便は全く経由しなくなりました。(酔法師さんのコメントで修正します)
(追記2)アンカレッジで給油している間、1時間程度でしょうか、安全のために乗客は機内から出てターミナルビルに移動しました。ビル内の売店を見るか、廊下を歩き回るか、トイレか、屋上に出て滑走路と外の林を見るかしかありませんでした。でも、今や、意図してアンカレジまで行こうとすると何度も乗り換えないと辿り着けなくなりました。航空料金も高い。十何年か前に、日米欧の数カ国の企業で議論していたプロジェクトの会合場所として、最も距離的に「中立な」アンカレッジにしようとの提案をしました。ですがもう現実的ではなく実現しませんでした。
新聞社のインターネット記事を見ると、何社も、JAL社員が街に繰り出しての販促活動している記事を写真付きで伝えています。
「今は皆様の税金から給料を頂いている状態なので、一日も早い会社更生を目指し、仲間と頑張ります」と、お涙頂戴のコメントをのせています。(asahi.com 2010-01-25記事より)
飛行機やCAとかは、やはり華やかで絵になるし、「判官びいき」、つまり天下り社長、政治家、霞ヶ関の役人などの悪漢にいじめられて来たけなげな現場の社員という構図です。
文字どおり「ナショナルフラッグ」であった約40年まえの写真を友人から貸してもらいました。機種はDC-8。米国のダグラス社製でした。
日本からフランスに派遣される留学生の出発記念写真です。当時は羽田から出発しました。まだ成田はありません。
この飛行機はジェットエンジンですが、航続距離は現在より短くて、ロンドンやパリにいく場合は米国アラスカのアンカレッジで給油し、北極の上空を飛行しました。ニューヨークに飛ぶときも、アンカレッジで給油。円形ドーナッツのようなアンカレッジ空港のターミナルビルで、知人に出会うこともよくありました。「おお、○○くん。どちらへ?」「NYからの帰路、君は?」「ロンドンに行くところ」などと。
ビル内の免税品で時計宝石や洋酒を日本語で販売する日系や朝鮮系のおばさんたち。つい、醤油あじのダシの香りに釣られて高価な(おいしくはない)特製うどんを食べました。
この写真は、マークが鶴丸となったあとのDC-8です。
DC-8は乗客定員も少なく、スチュワーデスの人数も多くはなかったので、こじんまりしたサービスで快適でした。当時の乗務員は四大卒女性にとって競争率のとても高い就職さきでした。
ある時期からソ連は外貨獲得のためにシベリア空路を西側航空会社に開放したので、欧州航路は、アンカレッジには行かずにモスクワで給油することになりました。モスクワ空港ターミナルビルには、外貨専門のお土産店「ベリョースカ」(白樺)が出来て、帰路にはウォッカ、キャビア、マトリョーシカ(入れ子のロシアこけし)、安物の万年筆などを買いました。
空港ビルの中はどこも暗くて陰気でした。男性用トイレの小用器の位置がとても高くて小柄な日本人は背伸びして用をたしました。
1957年に、米国より早く人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功したソビエト連邦。そしてその政治原理である共産主義に、1960年代や70年代の日本の若者の多くが「あこがれ」ました。
でも、暗いモスクワ空港のターミナルビルとそこで働いている公務員と店員の態度を見て、その国の将来と共産主義に幻滅を覚えました。
(2010-01-27追記)日本発欧州航路にモスクワ経由が開設されても、アンカレッジ経由は相当期間残っていました。現地の到着時間の都合などで、どちらかを選んだと思います。その内に、もっと長距離を一気に飛べる改良や新機種が出てきて、アンカレッジもモスクワも欧州便は全く経由しなくなりました。(酔法師さんのコメントで修正します)
(追記2)アンカレッジで給油している間、1時間程度でしょうか、安全のために乗客は機内から出てターミナルビルに移動しました。ビル内の売店を見るか、廊下を歩き回るか、トイレか、屋上に出て滑走路と外の林を見るかしかありませんでした。でも、今や、意図してアンカレジまで行こうとすると何度も乗り換えないと辿り着けなくなりました。航空料金も高い。十何年か前に、日米欧の数カ国の企業で議論していたプロジェクトの会合場所として、最も距離的に「中立な」アンカレッジにしようとの提案をしました。ですがもう現実的ではなく実現しませんでした。