「マスゴミ」。様々な誹謗中傷や罵詈雑言が飛び交うインターネットで、日本の新聞はテレビと並んでこんなありがたくない称号を与えられている。権力におもねり、自主検閲し、挙句の果てに出来た記事は横並びで偏向的─今も日本のメディアの「王者」であるはずの新聞をあげつらう声は尽きない。
その思考停止の度合いがはなはだしいのは、国家権力の中枢である永田町や霞ヶ関に生息する政治部記者、中でも最近生まれた「タイピスト記者」と呼ぶべき「亜種」達かもしれない。
岡田克也幹事長が民主党本部の記者会見場に入り、党の方針を説明し始めた。すると演壇の正面に陣取った数十人の記者が、一斉にノートパソコンに向かって一心不乱にキーボードを叩き始めた。岡田の表情には一瞥もくれず、何かに取りつかれたかのように猛スピードで岡田の発言を一語一句逃さずにメモにする。メモは、先輩記者やデスクが記事を書くための材料にされる。そこに分析や思考、洞察といった知的作業はない。その姿はジャーナリストというより、タイピストや速記係だ。
そもそもジャーナリズムの役割とは何か。アメリカのジャーナリズム専門家ビル・コパッチとトム・ローゼンスティールは、ジャーナリストのバイブルと位置づけられている教書「ジャーナリズムの原則」で「市民が自由で独立できるために必要な情報を伝授すること」と定義している。その上で、記者の役割について「重要な出来事を読者の関心をひきつける形で伝えなければならない」「ニュースを対極的に伝え、意味づけをしなければならない」と記している。日本の新聞記者で、日々これを実践している者はどれだけいるだろうか。
思考停止の理由の一つは、日本の記者が掲げる「現場至上主義」にあるかもしれない。日本人記者は「現場」という言葉を愛してやまない。「夜討ち朝駆け」取材こそが権力に肉薄し、真実に迫る最短の道だと教え込まれる。いわゆる「サツ回り」だ。毎日新聞の花岡洋二エルサレム支局長は言う。花岡は昨年イスラエルに赴任してから、現地の記者たちが公の場や食事などの機会を利用して情報源と知り合い、食い込んでからは情報を交換し、良質な記事を書くことで信頼関係を深めていく様子を目のあたりにした。「多くの日本人記者たちは夜討ち朝駆けの繰り返しで本を読む暇も、物事を考える時間もない」と、花岡は言う。「取材相手と渡り合うための知見などない。」その姿はまるで、軍隊で何も考えずひたすら上官の命令に従うように叩き込まれる新兵だ。・・・そして、思考停止した記者の多くが権力との一体化という罠に陥る。
最大の原因は、事実や中立性に重きを置く『客観報道』を理想としてあがめつつ、それを逃げ道として利用していることにある。そもそもジャーナリストが完全に客観的である必要はない。取材対象の拾捨選択や質問の仕方にすでに主観が入り込んでおり、完全に客観的な報道をするのは不可能だ。その代わり記者はフェアでなければならない。しかし日本の新聞記者は客観性を標榜する一方で、フェアになることを忘れている。
フェアネスの欠如がはっきり表れているのが、鈴木宗男から小沢一郎まで、事件やスキャンダルに巻き込まれた政治家を一方的に血祭りに上げるバッシング報道だ。『権力を監視する』と言う大義名分の下、水に落ちた犬を叩けとばかりに批判報道の洪水を起こし、各社は付和雷同的になだれを売って世間の空気に流された誌面を作り上げる。思考力ある一部記者の『異論』は、それが正論であっても押し流されてしまう。
記者クラブを諸悪の根源のように切り捨てるのも、建設的な議論とは言いがたい。記者クラブの排他性は公平性の観点からは批判されて当然だが、日本のメディアが抱える問題の一つでしかない。この国におけるジャーナリズム批判も思考停止に陥っているのだ。その姿は、考えることをやめて現状に安住している日本の新聞記者を鏡に映した世でもある。蔓延する思考停止から脱却しない限り、日本のジャーナリズムに未来はない。
ニューズウィーク日本版
2011-01-12発売号
(2011/1/19号)