行政書士中村和夫の独り言

外国人雇用・採用コンサルティング、渉外戸籍、入管手続等を専門とする26年目の国際派行政書士が好き勝手につぶやいています!

サプライズな、ビジネスブレックファースト

2007-09-17 12:37:04 | 海外事情

 18年前の9月12日の朝の事です;

「明日の朝、向かいのXXXで、朝8時にミーティングやるからなぁ!直接、集合だから。」

「あ~。あのご当地料理のレストランですね!テーマは、何でしょうか?」

「社長以下、会社の連中が相手だから、気楽なブレックファーストミーティングと考えて貰ってていいから。もう、会社の今後の基本方針も固まった事だし。なぁ!」

「はい。承知しました。では、直行します。」

***

 私は、87年から3年間ほど、M国の大径管製造会社に赴任していました。M国政府と日本政府、それに鉄鋼メーカーであるS金属などが出資していたODA対象のナショナル・プロジェクトでもありました。

 大径管とは、石油産油国などで見かけるパイプラインなどの鋼製の巨大なパイプですが、当時これを製造できる国は、日本、ドイツ、アメリカ、ソ連、フランスなどの数カ国に限られており、先端技術産業でもあったのです。特に、高品質な鋼管を製造できたのは、日本とドイツのメーカーしかない程であったのでした。

 最初の1年半は、M国の僻地ような土地にある工場で行われていた技術移転指導の通訳として、日本から派遣されていました。製造現場に関わるのは、生まれて初めての経験で、製造材料の仕様、調達、搬入からすべて製造の工程、品質管理、製造機械のメンテ、出荷、船積とすべてに関わることができ、大変勉強になりました。

 特に、日本メーカーの技術者達のレベルの高さ、品質管理・失敗を徹底的に究明し、それを生かす姿勢、チームとしての団結力など、先進工業国として世界の産業を席捲できた理由をこの目で直に見て、体験できた貴重な経験でした。そして、後半のMシティー本社勤務の1年半を含めた、この3年間の経験は私の人生にとっては、最も重要な知識が吸収できた時代でありました。

 そんな、ヘルメットと安全靴(靴の先端に鉄板が入っている頑丈な靴)が、やっと似合うようになって来た現場での生活だったのですが・・・。大口受注による生産が一段落した事もあって首都Mシティーにある本社の社長顧問(日本側の代表)のMさんから、本社への出張を命ぜられたのでした。

 Mさんは、M国の大臣、日本のM金属本社の専務などと共に、工場に大名行列のようにおみえになった時、工場の会議室でのミーティングでご挨拶した程度ですから、「専務の隣に座った、態度のでかい恐い顔の人(すみませ~んm(_ _)m。堂々とした方と言うべきですが、当時はそう思っていました(>_<)。)くらいしか思っていませんでした。ですので、本社への出張は、あまり乗り気ではありませんでした。

 Mシティーに到着後、早速M金属の事務所で打ち合わせがあり、私は大事な会議の通訳として参加することを、はじめて聞かされたのでした。勿論、事務所長のOさんや出向している財務部長のIさんにもお手伝い頂けるとの事でしたが・・・。驚いたのは、会議のテーマでした。会社には250億円以上の債務があって、その問題の解消案を話し合うためだというのです。仮に、半分ずつの125億円の債務を両国サイドで引き受けるなんて提案があったとしても、民間会社や日本政府としてとても首を振れる話ではないのです。日本政府に至っては、税金を1円足りとて出す筈が無いとの事で、まだ33歳程度の若造にとっては、とても想像の出来ない世界の話でした。

 翌日、ふかふかな絨毯が敷き詰められた本社重役会議室の重厚な扉にまずびっくりしました。そして、中には巨大な会議用のオーバルデーブルがあって、映画の重役会議室そっくりな光景に唖然としました。時々、通訳として会議には出たことはありましたが、こんなに立派(だから、会社は赤字だったのでしょうねぇ!)な会議室を持った会社だとは全く知りませんでした。そして、そこにはM国の各監督官庁、国営銀行の局長級の方々7~8人が居たのでした。彼らのほとんどは、ハーバード大学やらスタンフォード大学などで、MBAやら博士号などを取得している優秀な官僚達だったようです。

 そんな会議ですから、最初は全くビビッっていた私でしたが、M国経営側の勝手な論理主張に腹が立って、通訳としてではなく、製造現場に居る人間の一人として噛みついていたのした。そんな越権行為を犯した私を、社長顧問のMさんは怒るわけでもなく、よく言ってくれたと、逆に褒めてくれたのでした。そして、財務部長のIさん、事務所長のOさんに、「君たちさぁ、今後は僕と中村君でなんとかやって行けるから、もう日本へ帰んなさい!君達にはまだまだやって貰うことがあるから、こんな所で、無駄に過ごしてはいけない。専務には私から話しておくから!」と、さっさっと決めてしまったのでした。

 そうして、Mさんとの1年以上に渡る、連日の合同会議、個別ミーティング、ランチミーティング、朝食会といった奮闘勤務になるのですが、この時の事は、いずれ機会があればお話したいと思います。Mさんには、僅か1年半程仕えさせて頂いただけではありますが、企業経理、経営管理、コスト計算、販売価格の決定と限界価格といった会社経営知識全般から、交渉術、段取り方法に至るまで、おそらく現在の私の基礎を築いたノウハウの多くをこの短期間で教えて頂きました。

 さて、こういった会議、会議、ミーティング、ミーティング、ランチ、ランチ、朝食会といった毎日でしたから、Mシティーの主なレントランはほとんど制覇した程(当時は若かったので、いくら食べても太らなかったのですねぇ_(._.)_・・・)でした。

***

 前置きが大変長くなりましたが、眠い目を擦りながら会社の向かいにあるレストランXXXのビジネス・ブレックファーストに望むべく直行したのでした。レンストラン・マネージャーに、「さあ、こちらへ、どうぞ」と導かれて、会社の主立ったメンバー一同が全員既に揃って、私を見てニコニコしているのです。「何事なんだろう?どうかしたのかなぁ?」と思ってボウ~と立っていると、お誕生日の歌(M国では、独特なバースデイ・ソングがあります。)を皆が歌い始めるではないですが、唖然として固まったいるのを見て、Mさん

「馬鹿だな、今日あんたの誕生日だろ!」

「ナカムラ!お誕生日オメデトウ!いつもありがとう!」

と、社長から始まって、会社のお偉いさん達や同僚にお祝いを言われて、もうただただビックリというか、感激でした。この年になって、こんな沢山の人々に誕生日を祝って貰うなんて一度もありませんでしたし、きっとこれからも無いと思います。

 彼らは問題を起こした当時の経営陣ではありませんでしたが、前社長解任後に就任した元予算企画省局長だった、天下り人事であった事には何ら変わりはありません。社長自身が連れてきた部下も10人近くいたのでした。日頃は、会議などで通訳とはいえ、M国サイドの経営責任を厳しく追求しており、彼らから憎まれこそすれ、決して祝って貰うなど、到底考えられない仕事ぶりのだったのですが・・・。まあ、日頃は、社長が連れてきた若手の幹部連中と冗談を言い合う程の関係ではあったのですが、それにしても・・・。

 とにかく、かれらM国人は陽気で、人柄は断然良い人が多く人なつっこいのです。最近は縁は無くなりましたが、少なくとも、私はそんな彼らの事を友人として、いまでも大好きです。但し、仕事のパートナーとしては??ですけれどねぇ。

 そんな思い出深いサプライズなビジネス・ブレックファースト?でした。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする