もう、30年以上も前に「代償体験」について書かれた本を読んだのですが、題名がはっきしないのです。確か、カリフォルニア大学のハヤカワ先生なる人が書いたものだと記憶しているのですが・・・。しかし、ネットで検索しても出て来ません。私の記憶違いだったのでしょうか?
ところで、その「代償体験」ですが、「直接体験」の反意語だそうで。つまり、直接体験できない体験を、他の媒体を通して疑似体験する事という意味らしいのです。例えば、小説や随筆を読んだり、映画やTVドラマを見たり、友人からの実体験の話を聞いたり等々、自分自身による直接体験以外の方法による体験を称して、「代償体験」とその本は書いていました。
そして、仮に平均寿命まで生きた場合、その人間が体験できる経験は物理的には限られている為に、人間は必ず、本を読んだり、映画を見たり、人と話をしたりして、その限られた直接体験の代わりを埋めようとして、代償体験に頼ろうとするのだそうです。
読んでいて、『なるほど』と、大いに納得した記憶があります。確かに、1日24時間、年間365日という時間は、どうにもならないのです。どんなにお金持ちであろうと、時間を買うことはできません。22歳の青年の、今という時間は、皆に平等にあり、それが楽しい時間なのか、悲しい時間なのか、充実している時間なのか、或いは、無為に過ごしている時間なのかといった事にはまったく関係なく平等に過ぎて行きます。
代償体験は大変便利です。例えば、1年掛かって他人が体験した事を、僅か1~2日の文章を読むことによって、その概要を体験できてしまうからです。また、大変危険な経験や、とても耐えられないような恐ろしい経験でさえも、何のリスクも無しに、文章や映像や動画、或いは会話などから疑似体験できてしまうのです。
しかし、その本は、代償体験の危険性もまた指摘していました。つまり、所詮は代償体験であり、直接体験でないから、誇張されたり、デフォルメされた体験もあれば、全くの架空の体験もあるし、本当に見せかけたような全くのデタラメな体験もある。そういった多くの代償体験の中から真実、架空、誇張といった面を見分けなければ、却って代償体験は危険であるとも書いていたのでした。
とはいえ、結論として、我々人間には限られた時間しかないのだから、やはり代償体験に頼るしかなく、それが文化・文明の源でもある、と書かれていた記憶があります。つまり、『人の話は、半分は嘘と思って聞きましょう!でも、聞かないことには、知識や経験は増えませんよ!だから、どんどん書物を読み、また、人の話を聞きましょう!』と、私は当時このように解釈したのでした。
それからというもの、年配者の説教じみた話や、友人や先輩の自慢話、酔っぱらいの説教等々を聞くことが苦痛でなくなりました。むしろ、この様な話の中のどこが本当なのだろうか?なんて勝手に推理や想像を巡らせたり、このオヤジは何故こんな説教話を我々にするのか?などと、逆にこういった話を聞くことが楽しくなったのでした。
そんな私でも、40歳を過ぎた頃、気が付いたら、もう説教してくれる者が本当に少なくなっていました。誠に寂しい限りです。そんな私に、今でも説教をしてくれる数少ない貴重な存在が幾人かの友人とカミさんだけなのです。今後とも宜しくお願いします!