現在の葬儀や墓の維持は金がかかりすぎる、という現実を、制度・規制や最近の「定額制」などの動きから、そもそも現在の葬式仏教の成立まで遡り、最後は自然葬や火葬場で遺骨を引き取らない「0葬」を提唱している。
戦後次男三男で東京に出てきた世代が自分の墓を確保することで墓地の需要は増え続けてきたのだろうが、長寿化が進む一方で少子化や離婚・再婚の増加など、自分の墓は後の世代にとってどのような意味を持つのだろうかと考える高齢者も多くなってきたことから、現在は簡易な葬式や墓を求める流れがあるように思う。
本書によると現在の葬式仏教はつぎのような由来がある。
- 本来インド仏教の輪廻転生とは異なる「死後に西方極楽浄土に生まれ変わる」という中国で生まれた浄土教信仰が日本に伝わった。それが平安期の末法思想や鎌倉仏教の念仏信仰に発展する中で(本来悟りを開くことが重視されてきた)仏教が死と結びつけて考えられるようになってきた。
- その中で仏教式の葬式を編み出したのは曹洞宗で道元とともに二大宗祖とされる螢山紹瑾で、修業途中で亡くなった雲水の葬儀の方法を俗人の葬儀に応用する道を開いた。これが他の禅宗である臨済宗だけでなく天台宗、真言宗、浄土真宗などにも広まった(ただ、日蓮宗と浄土真宗は曹洞宗式の葬儀を受け継いではいない)。
- 曹洞宗式の葬儀の特徴は、死者をいったん僧侶にしたうえで葬る--死者を剃髪して出家したことにし、そのうえで戒を授け、戒名を与えること。
- 江戸時代に入ると幕府は寺請け制度を設け、それぞれの家が必ず地域の檀家になることを強制した。これによって、葬儀は必ずその寺で行うようになった。
- 位牌という習俗はもともとは儒教の信仰に由来する。仏教は釈迦が出家したように元来は家を否定し世俗の世界から離脱することを奨励する宗教だったが、中国を経て祖先崇拝の教えが入り込んできたもの。
著者は、仏教式の葬式は単なる形式をそろえるための道具であり、そこに宗教的的価値を見出している人は少ない、つまり、葬儀社がつれてきた初対面の「導師」にお布施を払って葬儀を「主宰していただく」ことで故人が成仏するとは考えていない、と主張する。
葬儀はその多くが急に起きるので、遺族・喪主としては「とりあえず余計なことは考えずに形を整えたい」という発想が働く。 しかし葬儀はさておき、墓となると自分の子ども以降の世代をイメージせざるを得ないし、単身者にとっては維持自体が課題になる。
葬儀も長生きすればするほど友人・知人・親戚は先に逝ってしまい、参列者は子ども達くらいになる。
そこで葬祭場での通夜・告別式、という葬儀までは必要なのかという疑問も起きる。 なので最近「終活」が流行っているのであろう。
本書では「0葬」以外の選択肢もいろいろ提示しているので、考えてみるいい機会にはなった。
途中から著者が会長を勤める「葬送の自由をすすめる会」の宣伝っぽくなってくるが、表紙の著者の肩書にも小さくではあるが書いてあるので文句も言えまい。
著者は同旨の本を何冊か書いているようなので、関心がある人は1冊読めばとりあえずは十分だと思う。