一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

エド・マクベイン『最後の旋律』

2014-12-31 | 乱読日記

エド・マクベイン「87分署シリーズ」の最後の作品で、遺作でもある。


87分署シリーズは大学生の時に出会ったのだが、そもそも第一作が1956年と自分の生まれる前であり、その時点で既に30冊以上あった。
ハヤカワミステリ文庫(今はハヤカワHM文庫)になっていた旧作を一気読みして、それ以来新刊で出るハヤカワミステリ(小口と天地が黄色いやつ)を都度買っていた。

エド・マクベインは2005年に亡くなり、本書の刊行は2006年。名残惜しい感じがして購入してから今までずっと読まずにいた。
今回年末休みで「一気レビュー」するにあたり、大トリにふさわしいであろうと、昨晩一気に読んだ。


87分署シリーズは、ニューヨークをモデルにした架空の都市「アイソラ」を舞台にした警察小説。
複数の事件が同時進行する構成のうまさに加え、その時代を反映した事件や背景、刑事たちの人生・恋愛模様という横糸も魅力となっていた。
特に黒人・白人・ヒスパニックだけでなく多様な宗教・オリジンを持つ人々が生活する様子を、ちょっときつめのユーモアを交えて描くのがマクベインの真骨頂であり、毎回新しいが安心できる熟練技を見せてもらっていた。

本作は犯人が末期がんに侵されている、という設定になっている。ちょうどこれはマクベインが2004年に癌の手術をした後の作品になり、訳者の解説によれば次回作とシリーズ最終作の構想もあったようだが、ある程度は遺作となることを意識していたのかもしれない。

今回は87分署の刑事部屋の面々だけでなくよく登場する他の署の刑事や恋人など主要登場人物がもれなく顔を出している(たまに1,2名欠けることがある)のもその理由。
特に87分署の刑事の古株で主人公キャレラの相棒であるマイヤー・マイヤー(いかにもユダヤ系の名前と禿頭の風貌も含め、ユダヤ人ネタには欠かせないキャラでもある)が、ずっと出てこないと思ったら最後の犯人逮捕のシーンに2行だけ登場する。

そのシーン

・・・チャールズ(犯人)が素早くベッドの脇のテーブルに置いてあったグロックに手を伸ばした。
「触るな、禿げ」マイヤーが叫んだ。
自分のことは棚に上げてよく言ったものだ。

「いきなり出てきてこれかよ」と、深夜に思わず吹いてしまった。

このセリフを言わせるためだけに最後に登場させて、全員登場を完成させるとは、最後の最後までサービス精神旺盛な人でした。


改めて合掌。





では皆様、良いお年を。


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『なぜローカル経済から日本は甦るのか』

2014-12-31 | 乱読日記

従来日本の経済政策はグローバル企業を中心に考えられていたが、日本経済全体にグローバル経済でのプレイヤーの占有率は3割程度、雇用にいたっては2割程度に過ぎない。残り7割のローカル経済圏が復活してこそ、日本経済は成長軌道に乗ることができる。そのためにはグローバル経済のプレイヤー(Gの世界)への施策とローカル経済(Lの世界)への施策を分けて共に進めなければならない、という主張。

グローバル企業の業績が良くなってもトリクルダウンは起きない、Lの世界はサービス業が中心のため規模の経済よりは「密度の経済」が働く、など、Gの世界とLの世界の特性とそれぞれに必要な施策を整理している。

Gの世界とLの世界の比較対照表はこちら。

著者はGの世界とLの世界には優劣はなく、選択の問題だという。

そしてGの世界で日本が勝ち抜くには、より熾烈な競争に生き残るべく企業統治や雇用関係も見直す必要があると説く。
個人としてもリスクを取って頂点を目指す人材が求められるので、今までのように大企業に就職すれば安泰、という選択肢はなくなるわけだ。
なので、「普通にできる」人にとってはまさに選択の問題になる。

そして、Lの世界では労働生産性がポイントになり、労働生産性の低い古い企業が退場し、新しい企業が参入できるしくみが必要だと説く。

つまり企業も長期的にはGの世界で勝負するかLの世界で勝負するかが問われるし、それぞれの世界でがんばらないといけない。この、常に尻をたたき続けるところが冨山節の聞かせどころである。


ご指摘の通りだと思う。

現在はGの規律とLの規律が混在していて、企業経営者も従業員も「いいとこどり」をしているがそれは長期的には成り立たないよ、というのはその通りだと思う。
かといって、大企業がすぐに舵を(特にGの方に)切れるかというとそこは慣性が働くので難しいというのも、日本経済の課題の一つである。
個人的には大量のリテール店舗と人員を持った「メガバンク」という存在がどうなるのか興味がある(本書では一応Gの世界に入っていたが)。

実家がベタなLの世界の町工場だったので、本書でいうLの世界では雇用の流動性が高い云々は認識していたし、またLの世界では一律給料が安いかというと、自営業者や歩合の営業マンは下手な大企業のサラリーマンより羽振りがいいのも知っているので、Gの世界とLの世界は選択の問題であるというのも理解できる。
ただ、Lの世界の問題は、同族での事業承継にこだわる経営者が多く、新陳代謝が行われにくいという点。筆者はここについては地方金融機関のデットガバナンスに期待しているがここもハードルがけっこう高そうではある。

ただ、今の日本は既得権の賞味期限が見えつつあるので、変われるチャンスかもしれないとも期待している。

 

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『限界集落の真実』

2014-12-31 | 乱読日記
『しなやかな日本列島のつくりかた』に登場していた社会学者の山下祐介氏の本

著者は、弘前大学時代に限界集落についてのフィールドワークを行い、限界集落が予想以上に消滅せずに残っていることに気づき、その理由を探る。

限界集落といっても、集落の人数と年齢構成だけを見れば消滅の危機に瀕しているが、実態は集落を出た子ども達が車で1時間程度の都市に居住していて、頻繁に実家に顔を出している。そして何人かは定年後を実家で暮らすことを選ぶ。
このように限界集落は親族を含めたより広い範囲でのつながりを考えると、その持続可能性は意外と高い。
また、もともと人数の少ない集落では人の結びつきが強く、人数が少ないだけ若い人(といっても定年近い人も含めて)が1世帯戻るだけでも地域へのインパクトがあり、地域再生の主体になりうる。

一方で、著者は本当に地域再生が難しいのは大都市だと指摘する。

大都市郊外の住宅団地は、ほとんどが都心に通勤しているため暮らしの中の相互作用が少なく、コミュニティも形成されていない。当然自治体の職員との交流もない。
こういうところは地方よりも「村であろうとする力」「町であろうとする力」が弱く、高齢化や人口減少に直面した時に耐性が弱い。

確かに都市部では自給自足も難しく、病気などで現金収入が減り、移動に支障出た途端に高齢者は孤立化してしまう。それを行政サービスで補うとしても、郊外の団地で軒並み高齢化が進み、税収の伸びも期待できないところでは難しい。

今後も地方の「限界集落」は何と言われようと自分たちの暮らしを維持できている反面、都市部の限界団地は行政のサポートを声高に言い出すとしたら、将来的には現在の都市住民の地方へのバラマキ批判と逆のことが起きるかもしれない。




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『しなやかな日本列島のつくりかた』

2014-12-31 | 乱読日記

『里山資本主義』の藻谷浩介氏の、地域経済の活性化の活動をしている「現智の人」7人との対談集。
そのうちの二人、神門善久氏の『日本農業への正しい絶望法』と村上智彦氏の『医療にたかるな』は既読だったので、ちょっと損した感じもしたが、読み直した+αと思えばいいか。

対談集なので個別のエピソードはいろいろ面白かったが、代表的なものを2点。

その1 地域プランナー山田桂一郎氏との「『観光地』は脱B級思考で強くなる」から
(山田氏はスイスのツェルマットで25年以上観光事業や観光局のマーケティングに携わってきた)

  • 「早くアクセスできたほうがお客さんは増えるに決まっている」「人がたくさん来た方がもうかるに決まっている」と日本の観光地でよく聞くが」、納得できる根拠は聞いたことがない。
  • 日本はどこの地域でも「入込数(宿泊・日帰りを区別しない単純な来訪者数)」を重要視するが、ヨーロッパの観光統計はすべて延べ宿泊数が基本 ・観光バスでどっと乗り付けてすぐ立ち去る団体客がいくら増えたところで、本当の意味で地域は潤わない。
  • 日本の観光地がダメになった原因の一つは「一見さん」を効率よく回すことだけを考え、リピーターを増やすことを長く怠ってきたことにあるのではないか。
  • 観光地として一番重要なのは、顧客満足度とリピート率。これらを上げれば、お客様一人あたりの消費額も自然と上がる。

これはおととい書いた白川郷と高山の対比でも実感できる。
政府や観光庁は昨年「訪日観光客1000万人突破」で大喜びし、次は2000万人と言っているが、島国で空港のキャパシティがボトルネックになる日本では、より入込数より延べ宿泊数や消費単価を上げることの方が重要に思うのだが。


その2 経済学者宇都宮浄人氏との「『赤字鉄道』はなぜ廃止してはいけないか」から

  • 車が来れば客が来るという思い込みは誤りで、郊外でも中心地でも車を降りて歩く人が増えないと店の売り上げは増えない。
  • 道路にかかる費用は路面の面積に比例する。過疎地の一車線の道路より都市近郊の4車線で街路樹・歩道つきの道路の方が、舗装のし直し、路面の清掃・除雪、街路樹の剪定などはるかに金がかかる。
  • 鉄道は道路に比べると通行人員あたりの使用面積が狭く、しかもレールは摩耗に強いので維持費も安い。
  • 日本はたまたま20世紀に鉄道で成功してしまったから「鉄道事業は儲かるものである=設けないかぎりは無駄である」という意識が生まれてしまった。一方で道路は公共事業として維持費も含めた議論がなされない。

確かに「赤字路線廃止」とか「新路線は採算に乗らない」という批判はあるものの、代替交通手段のバスについて、道路整備・維持管理のコストまで含めたイコールフッティングの議論がされていない。
2020東京五輪の選手村などもバスのアクセスを前提にしているようだが、五輪後を考えると、湾岸地区の交通インフラがゆりかもめとバス、というのは相当弱い感じがする。

ただそれには、まず国土交通省の中で鉄道局(旧運輸省)と道路局(旧建設省)が仲良くするところから始める必要がありそうだし、東京の湾岸部は東京都港湾局(ゆりかもめ)と交通局(都バス)が仲良くするところから始めないといけない。

先は長そうだ。

 

 

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『税金を払わない巨大企業』

2014-12-31 | 乱読日記

そもそも変だし議論も生産的でない。
レビューを書くのも時間の無駄っぽいが、読んだ本の在庫一掃をするといった以上書くことにする。

趣旨は表題の通りで、

  • 日本の税制は大企業や資産家層に対する優遇税制や税金逃れができる欠陥が多い。
  • 現に大企業の中にはほとんど法人税を払っていない企業もある。
  • しかも企業のグローバル化が進む中で税制が空洞化し財政赤字の原因になっている。
  • 国民はそのツケを消費増税という形で払わされている。
  • (そういう中で法人税率を下げるなどはもってのほか)

ということをおっしゃりたいようだ。

冒頭、日本の大企業の実効税率が低い、ということを調査してまとめている。
で、ここからして、連結納税をしていない親会社・持ち株会社の税金だけを議論していて、グループの単体ベースの納税額の合計についての数字がないのであれ?となる。

そして、受取配当金の益金不算入に関して、  

このようにして、企業グループ内の各企業が、株式を保有しあえば、各企業の利益による配当金を、グループ内の企業でほとんど税金を支払わずに内部留保することも可能になります。

と言う。
海外子会社が現地で支払う法人税との二重課税の問題と、意図的に低税率国を経由する税源浸食や移転価格問題とごっちゃにしているし、国内だけでもそんなうまい話があるように書いている(ならみんなやっているはず)。

挙句の果てに、最近の企業は税金を払わない代わりに配当が多い、と文句を言っている。

バブル崩壊と「失われた10年」以降は、日本企業も、短期により多くの利益を求めるアメリカ型経営への傾斜と、株主重視の傾向が急速に強まってきています。その現象として「配当性向の増大」によって株主への配当金の大幅な増額が行われる一方で「労働分配率の減少」が進行し、非正規雇用といわれる派遣労働者や契約労働者、パート従業員などの給与水準が低下しています。

本書全体を通じて、著者は、「既存の法人税のシステムを所与にして、企業はその本旨に従ってきちんと税金を納めるべき」という論を展開しているように感じられる。

高度経済成長期には、低い配当や税制優遇や雇用関係においてはメンバーシップ型雇用制度や退職金制度(この点については『日本の雇用と労働法』に詳しい)などによって、利益を再投資に回し収益を拡大してきた。

一方で現在は金融の国際化で株主構成も変化し、個人金融資産も1500兆円に達する中で上場企業の株主還元への要求も強くなっている。また、経済成長の結果円が強くなり、国内生産コストの優位性が失われたために海外への生産拠点の展開が進み、企業への課税関係も国を越えた複雑なものになっている。さらに、雇用関係もバブル崩壊以降の極端な非正規化から少子化を前に新しいシステムの模索が始まっている。
税についてもBEPS(税源浸食と利益移転)について、ルール作りの議論がされている。

そういう中で、企業の収益を株主と従業員と国(税金)と再投資にどのように配分すべきかを議論するならともかくこれでは単なる床屋談義である。

 そもそも議論すべきは「日本企業にその全体の企業活動に対していかに日本国への税金を納めさせる」のではなく、「日本で(に関係して)企業活動を行っている世界中の企業にいかに日本国に税金を納めさせるか」逆にいえば「日本国に税金を納めてもいいと世界中の企業が思うような市場であり税をはじめとした制度をどう作るか」という議論が大事なのではないか。


著者のように現在の法人税制度を墨守し、その前提と違う企業行動は税制の欠陥か不当な行為だ、と怒っているだけでは、何も始まらないと思う。

 

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