Rubber bullets at Hungary protest
(23 October 2006, 16:16 GMT BBC News)
ハンガリー動乱の50周年記念式典に対し、首相の退陣を要求する大規模なデモが発生したようです。
そもそもハンガリーでは首相が選挙のために経済問題について国民にウソをついていたことを告白したことが事の発端のようです。
(実はこの騒動はかなり前から起きているようで、詳細は「極東ブログ」の記事をご参照ください)
ただ、BBCのサイトでは全体的には50年前のハンガリー動乱を回顧する記事が多く、ハンガリーの「首相の嘘」騒動自体はあまり大きな問題とは思われていないのかもしれません。
で、私もハンガリー動乱の記事を見ていると、市民がスターリンの銅像を倒した、というのがひとつのトピックだったようです。
もともと銅像は象徴的なわけですが、倒されることでまた象徴としての最後の役割を果たすわけですね。
ベルリンの壁崩壊以降は、銅像は主に倒される方の役割を果たしてきたとも言えますが、ハンガリー動乱はその嚆矢だったと言えるかもしれません。
最近では社会主義国諸国のレーニン像
(『グッバイ・レーニン』でも象徴的に使われてましたが、レーニン像は宙吊りで撤去されるという絵が多いですね)
や
バグダッドのサダム・フセインの銅像
などがあります。
お約束のように手を差し伸べているのは、その先に「人民」がいる、ということだったんでしょうか。
PS こちらはまだお父様のものだけのようですが、まだまだ立派に立ってます。
ご指摘の通り、本人より、銅像の方が使い道がありそうですね。金属バットで殴っても死なないので。
偉大なる指導者の方には、来るべき時の為に、全国津々浦々に、ストレス発散用の銅像を造っておいて欲しいと思います。ご本人には、恐らく、中国の4人組の時のように、「TVショー(法廷)」への出演依頼があるかもしれませんので。
ww鋭いご指摘ですね。
現役の時に威光を知らしめるために作ってしまうと威光が失われたときに格好の標的になってしまいますね。
まあ、作った本人はそのときの事など考えちゃいないのでしょうけど。
欧米では死後に評価が定まってから銅像を作るというのはあるようですが。
そういえば日本は政治的指導者の銅像という文化はないですね。
天皇陛下の「御真影」はありましたが(金属供出令を出すくらいなのでそんな余裕はなかった?)。
民間企業では創業者の胸像というのはたまに見かけるのですが、立像というのもあまり見かけません。
この辺は文化の違いなんでしょうか。
「ぶつぞ!(仏像)」
「どうぞ・・・(銅像)」
というのがありましたよね。
それを、歴史的必然と呼ぶのでしょうね。