一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「目をつぶる」ときは、あまり理論武装をしない方が後々のためによい

2012-04-01 | まつりごと

(今年はネタがなかったのでエイプリル・フールではないです)

昨日の朝日新聞のオピニオン面「耕論 選挙が無効になる日」の福田博元最高裁判事の「違憲状態解消へ時間はあった」という記事が、選挙制度とは別のところで面白かった。
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私は1995年に最高裁判事に就任、参院の定数訴訟で「一票の格差の存在は・・・民主的政治システムと相いれない」という反対意見を書こうとしました。ところが最初にその原稿を提出したところ、「確立した最高裁判例に反します」と調査官から言われ、反対意見を書くだけでもずいぶん苦労しました。

「確立した最高裁判例」を変更するのはまさに最高裁判事しかできないのに、それに対しても現状維持の「慣性」が抵抗する力として働くのですね。
調査官としては、判例に反した見解を書くには身長に理論武装しないといけない、というアドバイスだったのかもしれませんが、職業裁判官がなる調査官としては自らが裁判官に戻ったときや下級審の同僚のことを考えると、「素人(福田氏は外交官出身)があまり混乱させるなよ」という気持ちが働くのかもしれません。

官僚が閣僚の秘書官になっている構図と似ているところがあるのかもなあ、などと思ったりして。

最高裁がなぜ国会に広範な裁量権を認めてきたのかを考えると・・・厳しい東西冷戦の時代で、東アジアで唯一の民主主義国だった日本で保守主義が続くためには安定した基盤が必要だと考え、そのために多少の投票価値の不平等には目をつぶったのではないでしょうか。「目をつぶる」ときは、あまり理論武装をしない方が後々のためによいのですが、無理に色々な理屈をつけた判例の蓄積は、後の裁判官たちの判断に大きな重しとなってしまいました。

タイトルにもしたのですが、太字の部分は大事で、これができないことが「マニフェスト政治」の弊害ですね。
選挙においては「公約」と言おうが「マニフェスト」と言おうが当選したら何をするという意思表示は必要だし、当選後にその内容を変更するには前提条件がどのように変わったかという説明責任が伴うわけですが、マニフェスト作成時に前提条件を網羅することはできないわけなので、状況の変更や想定外のことに対して「政治判断」ができなくなるなら政治家はいらない、ということになってしまいそうです。

マニフェストの実行を金科玉条とする(またはそれをしないことをもって批判する)のであれば、決められたことを実行する官僚の採用数を減らすよりは、やることを決めた以上はその後の仕事は減るはずの議員定数を減らす方が先だとも思うのですが。


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