花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

雪囲いやっと半分終了の後で、、

2021-11-05 04:19:11 | Weblog

昭和44年、、卒業して2年半の、

病院勤務の社会人でした。

 

昭和38年に、

東京大学入学にこだわっていた兄が

     2年浪人しても、東京大学に受からなくて

        しょんぼりとしていた姿が

             今も浮かんできます。

何百年も東京に住んでいた先祖の事を思うと

   戦争で、市ヶ谷の実家は無くなったが、

       再び東京に回帰して

         最後の力で、古いお寺の跡に開業してくれた父の想いを

           東大に受かれば、、、

       東京都内の「生き残り組になり、転々としたくない、、、」と思ったのでしょうね。

結果的に、

   私立の医科大を卒業して

        臨床医になりました、

         

     父と同じ経路の人生を辿りながらも、

         晩年は閉院して勤務医となり、、、質素乍ら

           85歳にして現役医師であり

             81歳にして英検一級を受かっています。

           勤務医になったおかげで

         不動産はすべて処理して、、、老人施設から勤務している

           「医師をすること」を選んだ兄です。

         姉弟には、、金銭的には、、、1000円の遺産相続もさせない

        長男唯一の時代に、

       従軍して大陸に渡った8年間は

         終戦によって、日本の国民は、

           「日本が  残っただけでも、、、、昭和陛下にひれ伏した。」

           みんなで泣いた。、、、

        原子爆弾で、人間が元素になる瞬間を観た国民は

           最後に一人まで、、、女性も、、竹やりを造っていた。

        「終戦の玉音放送」にひれ伏して

         「陛下の、、お言葉だけに、、、皆、、終戦を受け入れて

           女たちは竹やりを置いた、、、日本の国民性って、、???

        サイパン玉砕の時も

          女性たちは、、、皆、、、バンザイ岬から飛び降りて 

 

                   大海の中に身を投げて、、、しまった。

         終戦は、、、世界の終戦であ有ってほしい。

        闘うのなら、、、、オリンピックのように、人間同士の優劣で戦いたい!。

           科学を間違った方向に巻き込まないでほしかった。

          原子爆弾や、水素爆弾や、この世に有るというだけで

             X軸と、Y軸だけで勝負を考えた

              科学者の扁平な次元だったのではないのだろうか。

         実際は、、、戦争の前後には、相対性理論や

            立体次元で、、宇宙の自転、、、公転、、、太陽系銀河系

              そのまた外の銀河系、、、の様な宇宙が報告されていた時代に

             原子爆弾の砂漠での実験の後、日本に、、、2発も投下された。

 

       政治家や 軍隊は X軸とY軸で勝ち負け、、、領土、、、支配、、、と

         人間が万物の霊長として、、、条件づけた領域の中の計算で

           国と国が、、、

          地球の統治を争ってきたのではないのでしょうか???

       地球は一つなんだから

、、、地球の平和を、、、丸ごと考えてほしいと思いました。

 

        地球という、別の生命体、、、別の生命論で考えた「鉱物、元素、化学物質、、、」

          スピン、、そのものが、すでに

      X軸とY軸だけで、領土や経済を考える人間が、、、部分でしかないことを

          物語っているのではないでしょうか???

   地球の生命をZ軸に、銀河系、太陽、、、衛星,、月、、、多くの軸を判断の基準に加えて

          国際間は一つになって、、、せめて、、z軸の地球を立体象限として

       温暖化は、、その小さな小さな、、、兆候でしかないと、、思えたりしています。

 

  話は、、もとに戻しますね。。。。日記だから、、、自分で自分に

      呆けないうちに、、、何を考えたかを、、日記に記しておきます。

    日大の理工学部の時代の、、、教養時代の数学の

     「行列式を、、、もう一度解きなおしながら、、、

         世間では、、、なんと言われようと、、、

            日大は良い講義をしてくれたと

             母校に感謝して、、、私自身の人生に限っては

                     日大に感謝して卒業したい。

        大学名だけでは「金屏風にならない、、、各人の力があらゆる方向に力となる、」

      ぎょろめの教授が、、、早口で、、、授業の時、、、無駄口時間のように

           勉強しない私たちを、、、啓蒙してくれました。

            卒業アルバムには、、、マンガで書いた似顔絵を、採用してもらいました。

          人生は、、、マンガのように、、、解りやすく、、生きた私でした。

             孤独を感じなかったのは、、、頭は常に、別の生活をしていました。

    量子力学、、、物理,、、化学、、、数学、、、専門の薬学は実学で

        筋肉で仕事しながら、、、

      いつも教わった、、

          思考の数学なんかを、、、考えながら、、

            いつの間にか、筋肉が家事をこなしていた。

                友人は一人も居ない、、、北海道の結婚生活でした。

                  NHK が有るから、、、寂しくもなんともありませんでした。

 

 

 

           父が、、、幸せとは思えない、、、激務の人生をおくったことは

         戦後の、親戚縁者、、、皆、、、医師である父を頼ったという

        戦後の溺れれそうな人は、、、皆父を、、、藁のように掴んで

       居候だらけだった、、、我が家、、、

         池田総理の時代から、、、1人、、、また一人、、、我が家から

             独立して、、出て行ってくれた。

               戦後とは、、、出来る者の方にかかってきて、、、手加減は無かったし

            貧しい心は、、、父から持ち出すばかりの時代だった。

       最後は開業医だった父は54歳で、、、過労死したことが

            兄に、、、自己防衛を考えさせたのかもしれない。

          ほとんどアルバイトで大学を卒業した私は

             これから、、医師になる弟の事を兄に託して

               北海道に、、、父の代わりに働いてくれるという

                 外科医を、北海道に、、、迎えに来たはずだった。

                      北海道で、確固たる職場を得た相棒は

                        結婚時の約束を、当然のごとく、、、守れなかった。

        父と経営していた開業で、1人の内科医が心細く開業を継いでも、

          たぶん、、、命を対象の仕事だけに、、、

            孤独と恐怖があったのだろうと推測した。

 

         兄は、身軽になって、施設に住み込んで

          勤務医を続けるという選択をした。、、、

      実家を売ることは、、姉弟にも、、、相談はしなかったようである。

           突然、、、実家が売られてしまって、、、無くなった事を知った弟は

             財産としてではなく、、、

          父母が、、、大勢の従妹や、、、叔父さん、、おばさん、、の何組も支えた

            雑居家族だった時代が、、、忽然と消えて,、、心が寂しいと

         売るなら、、、一言、、、相談してほしかったと、、、ぼやいていた。

             

 

          54歳で過労死した父の場合を振り替えると

          医師に、、全ての事が、、、

           おんぶにだっこだった様な

            強く見えすぎたばかりに背負った

 

            雑多のノルマの過剰だったと、、、

               蚊帳の外からは見える気がします。

 

          晩年、、、時々ぼやいていたように、、、

                 星空を,、、黙って見つめていた父の顔が

                         何を思って、、、賽の河原の石を積むような

          診療の繰り返しを、、、1人で背負っていたのだろうと、、、

         医師に、、、おんぶにだっこの、、、親戚が、、

             要領が良すぎに見えて仕方がなかった。

 

 太平洋戦争で、

     外科医は海外の

        戦場の至近距離に御奉公した時代が終わり

 

   終戦まじかの昭和19年、

      父は軍服にすべてをゆだねて

    最前線の戦場に

      トラックで移動するところでした。

 

      もし、、、あの時

 

        乘るはずだったトラックが

          既定の場所に現れたなら、、、

 

            父は、そのトラックに乗って

              玉砕した戦場に行くところだった。

 

     上層部では、すでに、、、日本は長期戦に突入の為

       資源の少ない日本は、あらゆる物資が底をついていたことを

            知っていた。

 

          国民のパニックをさけるためなのか??

          国内の情勢が相手の国に察知されるのを防ぐ為か、、、???

 

         最大の新聞社も、、、

             報道は規制されていた。

 

        国民は,、偏った報道に翻弄されて

           勝利を信じ乍らも

 

          鍋、、釜、、、指輪に至るまでの

           国への奉納の始まった空気に、、、

 

          「憲兵さんに聞かれると,、、マズいけれど、、、

              新聞は、、、ワシャ、、、信じるの、、、止めて、、、

                 防空壕に、米を備蓄した方が、、、良さそうじゃ、、、」

 

          「ワシも、、、そう思う、、、」

 

     村の長は、村民に、本土決戦の為に

           備蓄などをはじめたさなか

 

              女性たちは「竹槍」をつくり始めた。

 

             町長をしていた

                母方の、、、私の祖父が、

               大学出身の少ない田舎では

              校長先生も兼ねていた。

 

         学校では、

          座布団を二つ折りにしたような

             防空頭巾と呼んでいた綿入れ帽子が

                 通学スタイルになったころ

 

       

        国から、

      日本の、軍隊の玉砕が知らされたそうです。

 

       祖父は、単身、戦場まで、

           娘家族を迎えに大陸に渡りました。

          

     アメリカから、日本に帰国していた祖父は

        アメリカと戦争するなんて、、、

          どうかしていると、、、嘆いていた。

 

      この戦争は、

        巻き込まれてしまったのかもしれない、、、

       真珠湾を忘れるな、、、という

       アメリカの合言葉が、しばらくの間、、、

           原爆投下を正当化するかのように

              戦後の昭和25年ごろまで

                子供たちの耳にまで、、、

         「真珠湾?」と、、、飛び交った。

 

        祖父の話によれば、ハワイには低賃金労働者としての日本人が

         何千人と「サトウキビ畑」で働いていた。

          アメリカ兵とともに、、、日本人も真珠湾で大勢死んでいったのだよ。」

 

        明治生まれで、筑波大学の前身の師範学校を卒業し、

        28歳でアメリカに留学していた祖父は

 

           戦争がはじまる直前に、引き上げてきていた。

 

            日本はアメリカと戦争するなんて

              全くどうかしている、、、、

             資源も比較にならない、、、

             法の下に発展してきたアメリカの国民意識は

            南北戦争をはじめ

              いろいろの国の国民の

                合衆国であるだけに

              考えそのものが、合理的に発達してきている国であったそうです。

 

               日本の一部の人間によって国が動いて行くような

            短期決戦型の国とは違いっていることを

           小学生になった私たちにも、、、

        話してくれるような祖父だった。

 

         終戦の前に、戦場から、着のみ着のままの姿で帰国して

               救われた父母は

 

         祖父が、町長をしていた南紀の山奥に、

                そのまま疎開したのでした。

          「産めや増やせ」の国の掛け声で

           戦時中の女性は子だくさんでした。

             我が子が、、、肉弾3従士や特攻隊の

               人間爆弾になるとは、、、どの母親も考えただろうか?

             考えもしない展開を見せた、、、

               人間が武器となった戦争であった。

             物資のない中、、、

                  母も8人、、、

                    出産しています。

 

               日本に帰国できたのは、長男と次男だけでした。

 

                帰国した父母が

           実家のある市ヶ谷、母校の有る飯田橋界隈、、、は

                  焦土と化した。

                  焼夷弾攻撃で

                東京を捨てて人は疎開を選んだ。

 

          山奥へ、、、山奥へと、、、

             無医村の医師として

            疎開の生活が始まりました。

 

          十数軒だった集落は、

            七か村、点在するように川に沿ってありました。

 

             無医村地区に「東京の医師が住み着いた」

 

           その情報は、村落だった村が、、、にわか銀座となり

          医師のいる村に疎開する,、、、、動きは、

             にわかに人口も住居も増えて

            戦後の疎開生活は、

              無口な父が、動きを止める暇の見いだせない

            激務の続く診療の毎日でした:

             人工は3000人を超しました。

 

           体も、、精神も、、ボロボロの

           傷痍軍人が、白い服で、診療所に来ては

          戦後の復活に向けて、、、

                   少しづつ立ち上がっていきました。

     

 

戦後の日本を観てきた時代に生れた私

          自分の人生も…77歳となり、、、

    私なりに、、、勤勉に、、、

          ひたすら銃後の御奉仕のように

           日本女性は、戦後、、、立ち上がる日々だった、

 

      「少なくなった男性人口の中」、、、

            老人が復活の家庭の戦力であり

 

       未亡人が、、、、残された男の子を3人も、、、

 

         父の診療所で、

          食事配膳を切り盛りしたり

           リネンや掃除に明け暮れ乍ら

              戦争未亡人の鏡のように、子育てをする姿に

 

                今も、、、思い出すのは、、、

                 帰宅時にもたされた「握り飯」に

                    笑みがこぼれた、、、あの時代。

 

          昼も夜も、激務に往診、、、

             父の姿は観えなくても

         働き手を失わないで

             疎開で来た母は幸せな方だと思った。

 

        戦地で子供を三人失ったことと、

         1人の流産で

         疎開地に着いた後でも、

 

           時折耳を抑えて走り回ったりしていました。

 

           「 B29」の飛行機が

                 昭和20年代の後半まで

              あんな山奥の疎開地の空の上にまで

               飛んできていたのでした。

 

           ゴン、、ゴン、、、ゴン、、ゴン、、、と

                 響く独特の音響が

             空を威嚇している様な、、、

         地響きのように共鳴して

           母は、狂ったように、、

            耳をふさいで、、走り回っていました。

 

         子供たちは、、、何とも、、、

          理解しがたい大人の姿が

           目に焼き付いています。

 

           B29が去ると、、、母や賄のおばさんは

            ニコニコと、

            もとの顔に復活するのでした。

 

           戦争を知らない、、

              団塊の世代の男子が生れました!!

     戦後の太陽の子です!!!

          

          戦後は復興に向かって、、人々は

             アメリカに追いつき追い越せ‼!!、、、の

              ありえないほどの「勤勉な日本人!!」の

            登場でした。

          「湯川秀樹博士」が「ノーベル賞:」を授与されて

          誕生する男の子の名に、、、「秀樹」、、、多く聞くようになりました。

 

        雪囲いしながら、、、今は、、高野山の杜となって

           この世を卒業した父母の時代が思い出されて、、、

              いつしか、、、庭木に

             思い出の人々の笑顔が見えて、、、

           来年も、、一緒に生きようね、、、

             一本一本の枝折れを防ぐように

               選定しながら、、、

                  雪から守ろうとする、、、ごく自然な友情が

                今年も、雪囲いをするのかもしれない、、、

     

            

           来年も、、生きていたら、、、息子にも逢いに行きたいと思っている。

        

 

       孫が3人とも私立、、二人は大学、、、めざしも分け合う長男夫婦に

        「この,,,向こう4年間が人生の、、、育児戦争のピークだから、、、」

       「 長い間、、ローンンを返し終わった分を

                銀行が、上乗せして貸してくれたから、、、助かった!! 」

          共働きしている看護師さんの嫁さんとは

            経済戦争の戦場の話を聞く役でああるが、、、頼もしい戦士デす。

 

              普通の嫁舅、姑の様な 

 

             お茶を入れてもらうとか、、、

              一緒に買い物をするとかの

                親族の独特の付き合いは、、、

                    我が家には無いが

              しっかり生きてゆくようにと、、、

                 応援の心も

                 祈る心も、、、

            普通の爺ちゃん婆ちゃん並みに有るのですよね。

 

                   

             不思議ですよね、、、孫たちの笑顔は、、、

 

           共働きする両親の姿が

 

              過ぎし日の自分たちの

             「育児戦争の時代」と重なって

 

             野球に夢中に応援するフアンにもにて、、、

 

                未来に放たれた、、、矢のように見上げながら

                  息子家族の頑張りを

 

                 無力になってゆく77歳の婆ちゃんは

 

                   毎日、、日の出に、、、

                    皆の幸運を祈っている。

 

         戦後の太陽の子は、、日本の「早期がん」を見つける

               医学への貢献が出来て

           父も、兄も、、、、医師を育てて

                  医療に貢献できたことを

                   遠く北海道から、、、見つめながら

                  今はすべてに感謝しかない。

 

                明日は、、、残りの雪囲いをして

               未生から育った君子欄を、室内に移して

              対馬で生薬探索会でもらった未生の椿が

             30年過ぎて、、、蕾までは、、咲きかけた今年、

            まだまだ、coronaにも注意しながら

               孫子を労わるように

              庭木が、、、私の世話焼きを受けてくれる。

 

            次男は、、、、50歳を目前に

              医師をすることだけに、、生き甲斐を感じているようであるが、、、

                 大学が

              卒業生をしっかりと成長さして

               医師をすることの病院勤務に

                必要な技術を育ててくれたことは

                  家庭の育児とは

                スケールの違う、、、医療界のリーダーなのだろうと思いながら

           経済的な余力のなかった北海道の暮らしからは

          孫子の未来に向かって

         我が家から

     「医師を育てる力は、、、もう無いであろうと思いながらも、、、」

       医師の娘として生まれ

         世間からは想像もつかない、、、医師の舞台裏を見続けて

           ギリギリのところで

             医療崩壊を避けられた、、与党のワクチンの入手に感謝しながらも

          これからの日本の医療体制は

            国際交流の    その陰に危惧される、、、感染症に備えて

              

                医療チームの

 

              現場の医療に必要な組織作りを

             政治家の偉い先生の指導のほかに

                 現場専門家の意見に即して

                   医療は、、、権力や、、順番ではどうにもならない

              専門分野の「命」に対面している毎日であることを

             再認識して、、、

            半可通な意見ででっち上げた、、、

              マスコミ報道が

           下手をすると、、、国民の

             自宅療養で

           命を失う医療社会をつくってしまう事に

                 気が付いたと思う反面

 

         のど元過ぎると、、またまた、、、

            あることないこと、、、

          現場を知らないコメンテーターの、、、

            評論が、、、医療崩壊の方向にと、、、

                    モンスターの取り巻きをつくってしまい

 

               再び、、医療崩壊の起きない社会を構築する為の

             雑音になるのではないかと、、心より

           医療の充実で、

          、国が亡びるのを防ぐ方向の放送を願っています。

            医師や医療人を揶揄したくなったときには

             ゴミ袋で走り回っていた医療人の姿を

               思い出して、、、

             二度と、、、自宅療養で、、、若者が死んでゆく事の無い

            医療体制と、、、患者さん側の、、、

               自分が素人であるという

             「御 自分の命の前には」、、、謙虚になって

                 専門家の医師の前で、、、

                  客だと思う事はどうかと思うのです。

               

       命は、、、医療組織の充実で守られると信じています、

      人間の誰しもが,、、血管は青く見えるし

            血管を繋ぎ合わせると、、地球のひとまわりよりは

               はるかに長い、、、

             心臓が、、、その地球の周りよりも長い血管に

            ポンプとなって絶え間なく血液を循環させて

          命を守ってくれているという

        人体の構造は、、、神がかった精密な

             物理であり、、、科学であり、、、心理学であり、、、

              この世の学部全部合わせても足りない、、、「心」が左右する。

 

        たった一人のドクターXが

             「人体を引き受けられる歳てドラマをつくり」

          黙々と命と向き合う医師の姿を、、、揶揄し、、、皮肉り、、バカにする、、

         全てはパラドックスに似て、、、面白いが、、、笑ってしまう、、、嘘が面白い!

        

            先ごろの「ハナシカ」さんの「人間国宝」が旅立たれ

             追悼番組を観乍ら、、、

               「ハナシカ」にかけた人生の真剣さに

                 どのジャンルの職業も、、、皆

               命をかけていて、、、その人にしかわからない

              哲学を持っていて、、、真剣に生きている。

                 

           医師も、医療人も、、真剣勝負の世界であるから、、、

          これからも、、、定期的に起るであろう、、、

              パンデミックに備えて

         マスコミの、、半可通な医療描写は

         「患者様」「患者さんのお客意識」「医師への表面的理解」

         「白い巨塔」「アイゼンカツラ」「、、、白衣の天使、、、

            医療現場を知っている者は、、、

           感情が先行して物事を観ているドラマは、、、

              考えモノではある

 

         ニッポンの未来、、定期的なパンデミック

           細菌戦争の時代に備えて

             命と闘う医療人の

             専門知識の取得と維持の、、、見えない出費は

              40歳ぐらいまでは、、、ローンできり向けた記憶があります。

               

            TVで観るような、セレブな夫人は珍しいですよね。

          

              

              見かけ上の分配される収入は

                医療機械のバージョンアップやリースに消えてゆく。

             このまま行くと、、

              コロナの時の悪夢のように、

                 自宅療養で死んでゆく命が

            防ぎきれると言える医療組織であると、、

                 日本の、医療組織そのものが

                     医師の時間貧乏という仕組みを、

                           変えられるとは思えない。

 

           細菌爆弾搭載ミサイルの迎撃装置は

            医療人への理解と、、

           医療組織を権力で統治するのは無理があるという事と

           医療人とその家族への理解と、、、

            世の中の白アリが、、

             医師を喰ってしまうのを

                防げないモノなのだろうか、、、?

 

         国宝だったハナシカさんの言葉をお借りするのなら、、、

           医師はハナシカ、、、だとするならば、、、

               マス小物報道は「落語」に相当して、、、

                 素人は、、同じものだと思うかもしてないが、、、

         笑わせるのと、、、「笑ってしまう」のは、、、違うという事でしょうね;

             落ちがでましたので、、、この辺で、、、ペンを置きます。